これをお読みになっている賢明な皆様には、小春日和とはまさにこの時期の穏やかな気候を指すなどと言うことは釈迦に説法以上でも以下でもないと思うが、残念ながら早春の気候と間違えている向きが多いようだ。標題は言うまでもなくさだまさし作詞の名曲の一節であるが、もちろんこれは秋の歌である。いまもしこの曲をさだまさしがテレビで歌ったら、苦情の電話が殺到するかもしれない。歌詞が間違えてると言って。
しかし、誤用が大手を振って歩き出すと、やがて正当性を認められることもある。例えば「敷居が高い」というのは、本来不義理をして入りにくいという意味なのであるが、高級だったり格が高かったりして入りづらいという誤用がついに市民権を得てしまっている。いにしえのツービートではないが、「赤信号みんなで渡れば怖くない」、の類いだろうか。しかしこれも古いね。北野武がコンビを組んで漫才やってたのを知らない世代のほうが多いんだし。
と、標題とまったく違う方向へそれて言ってしまっているが、要するに明らかな誤りでもそちらのほうが声が大きくなったり、あろうことか権力を握ったりすると、誤りのほうが正しいことになってしまうのだ。その意味では、真実を語ればきっといつか気がついてくれるというのは誤りである。残念ながら相当しつこく語り続けないと、権力を持ったあほうに負けるのである。人はやがて易きに流れるから、みんな挙って権力にすり寄り、やがて誤りの大帝国ができるのである。
なに、今の日本の体制批判ではない。まさに今ヒロシマ球界で起こっていることをカリカチュアしたまでである。無理が通れば道理が引っ込む、まさにそれかもしれぬ。
いうまでもなく松田元というのは権力を握る過程において相当の無理を通した男である。あれほどやることなすことすべて道理に合わないことができるというのはある意味才能だ。もちろん悪い意味で。それは今もまったく変わらないどころか、ますます陰湿になっている。なのにプレス対策だけは手抜かりがないから、何か今はいい人のように見せかけることに成功している。そして多くの信者を獲得するに至っている。まったくばかばかしい。
それでも、私は諦めない。私もいい加減しつこいから、莫迦を莫迦と言い続ける。誤りを誤りと主張し続ける。カープカルトに蹂躙されてたまるものか。
当地もまさに穏やかな小春日和が続いているが、しみてくるのは情けなさかばかばかしさか。それでもやがて雨をきっかけに寒い冬の予兆が来るらしい。そうなると、ますます心凍らされる気がする。
それでも、今日の十六夜の月もきれいだった。遠回りして帰りたかったが、本業で振り回されてそんな気も起こらなかった。それにしても、疲れた。こんな夜は本来屋台でラーメンでもすすりたいんだけどね。






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