開かれた扉と閉じられた扉

おもひで

今日はJ2の昇格プレーオフ決勝戦が行われ、オリジナル10の一角にありながら長くJ2に沈んでいたジェフユナイテッド市原・千葉がJ1昇格を決めた。実に17年ぶり、参入プレーオフにもはじかれ続けながら、ついに摑んだ栄冠。とにかくおめでとうございますと言いたい。秋春制導入のシーズンにオリジナル10が全て揃うというのも、何かの導きと言うべきなのだろうか。

そんな日、関東大学ラグビーリーグ戦で、名門大東文化大学が入れ替え戦に敗れ、来季の二部落ちが決まった。しかも昨シーズンの優勝チーム。これだからカテゴリィ制は恐ろしいとしか言いようがない。ちなみに危うく降格を逃れたもののリーグ戦最下位に落ちたのはこれも名門の日本大学。ちなみに中央大学も現在2部である。

もともと大学スポーツは栄枯盛衰が激しいものではある。現に一時代栄華を誇った京都大学アメリカンフットボール部も、1996年以来優勝がないどころか、優勝争いに食い込むことすら出来ないでいる。平尾誠二で一時代を築いた同志社大学ラグビー部も今年は全日本大学ラグビー選手権大会を逃している。そういう意味では100年ラグビー対抗戦のトップを張り続けている早稲田大学と明治大学は素晴らしいと言うべきなのだが。

先日書いたとおり、様々な制約から大学スポーツはなかなか安定して強いチームを作ることは難しい。京都大学なんかそのいい例で、当たり前だがスポーツ推薦などないから有望な選手は各部取り合いである。東海辰弥さんがヒーローとなって甲子園ボウルを2連覇した影で京大ラグビー部が二部落ちしたし、今は野球部の方が力があるから、アメフト部になかなか人が集まらないのかもしれない。

まもなく箱根駅伝が行われるが、これなど栄枯盛衰の縮図のようなものである。最近の人に中央大学6連覇なんて信じてもらえないだろうし、あるいは山梨学院大学や神奈川大学が栄華を誇ったことさえイメージが湧かないかもしれない。日大や日体大や順天堂大学がシード争いに甘んじている姿なんて一昔前ならあり得なかった。今栄華を誇っている青山学院大学だって原晋監督が復活させたのである。

一方でプロスポーツというものは、そういう制約など言い訳に出来ない。勝てなかったチームは扉が閉ざされるだけである。Jリーグは言うまでもなくカテゴリィ制だし、Bリーグだって今後は参加基準が厳しく査定されると聞く。サンフレッチェも今は良いかもしれないが、監督が替わるタイミングというのは時にチームが崩れる危険もある。ドラゴンフライズにはアリーナ問題が今後論点となる。日本一を取ったからといって安泰ではないのだ。

そういう意味では、NPBは甘い。なんせカテゴリィ制ではないから降格もないし、20年連続最下位になっても何のサンクションもない。だからカープのようなやる気のないチームが生きながらえられるのである。本当にカープはクソみたいなチームだ。組織は勝つ気もないし、現場はショボいメンバーばっかりだし、JリーグだったらJFL通り越して社会人リーグまで落ちるかもしれない。

かつては違った。選手は光り輝いていたし、いちいち存在に説得力があった。それは山本浩二衣笠祥雄というスタアだけではない。どの選手も一軍でのraison d’êtreを賭けて戦っていた。今は残念ながら、当局の推しがレギュラーに宛がわれているだけだ。申し訳ないが、そんな選手に対してリスペクトなんて出来ない。悔しかったらリスペクトさせるだけの結果残せと言うだけである。

別に厳しいことを言っているつもりはない。これはプライドを持って仕事をしている人なら分かるはずだ。同じ立場であって結果も出さずしゃかりきにもならないスチャラカ社員と同等の評価をされたらたまったもんじゃないだろうし、そんな輩にリスペクトできるだろうか。ましてやカープの選手は、その技術を見せて、かつチームの勝ち負けを見世物にしているのである。

そう、カープはチームの勝ち負けを見世物にしている大衆芸能であることを忘れてはならない。それに貢献する選手には盛大なBRAVOを送りたくなる一方で、そうでない選手には容赦ないブーイングを浴びせたくなるのが普通なのである。コンサートで粗ばかりの演奏聴かされて、寄席でとちりばかりの落語聞かされて拍手できるだろか。プロ野球だって一緒だ。

このままでは、カープは永遠に栄冠への扉を開くことが出来ない。それどころか、いずれ栄冠への挑戦権すら失われるかもしれない。それでいいの?といいたい。カープというのは、あなただけの心の推しではだめなのだ。1000万人のカープファンの心の琴線を動かす存在でなければならないはずだ。そのためには、強くなくちゃいけないのだ。今のままじゃダメなのだ。

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コメント

  1. サンドラぁ! より:

    ジェフ市原(千葉とは言わない)
    17年ぶりのJ1復帰はおめでとう。
    しかし管理人さん、栄冠は違いますよ。
    J2優勝ならともかく、プレーオフを勝ち上がってのことですから。
    まあ昔のプロ野球では、クライマックスシリーズ優勝がリーグ優勝というわけわかめなことがありましたが。

    まあ懐かし話というと
    関西大学ラグビーですが
    同志社同様、かつては名門だった大阪体育大学が入れ替え戦立命館大学に21-57(前半7-31)で負け、昇格はなりませんでした。
    かつては、ヘラクレス軍団と呼ばれ
    リーグ優勝5回、大学選手権27回出場 
    (うちベスト4 3回)と
    輝かしい実績がありましたが
    2014年に、Bリーグ降格。
    2017年に、Aリーグ復帰も
    2019年に、再度Bリーグ降格以降は
    Bで優勝はするもAには入れ替え戦で勝てないという。
    去年は関西大学相手にラストワンプレーまで勝っていたが今年は立命館大学に差をつけられた。
    大阪体育大学、名門復活はまだ遠い。

    以上、昔を懐かしんでみました。

  2. Иван Иванович より:

    “raison d’être”というお言葉、お好きですね(笑)。

    個人の使命として、存在意義を意識するのは西洋思想で、俺のようなゴリゴリの仏教思想において「存在意義を探すこと」=「苦の原因である執着を強める行為」とすら見なされます。
    仏教は、存在意義を“否定”しているのではなく「そもそもそんな固定的なものは存在しないし、探す必要もない」という立場に立っています。

    “raison d’êtreを賭けて戦う”はリアルなのか。正直、多くの場合「存在意義」は後付けだと俺は考える。
    現場の選手は「存在意義」なんて抽象的なものより、今、目の前の球をどう打つか、どう抑えるか、どう生き残るかという極めて具体的な課題に向き合っている。「存在意義を賭けて戦っていた」という言い方は、外側の人間が物語として語りたくなるときに使う言葉。

    プロの現場で本当に重要なのは“存在意義”ではなく“プロセス”でしょ。存在意義は結論論。でも、プロセスは日々の現実。
    体を作る、技術を磨く、メンタルを整える、チームの中で役割を果たす、目の前の一球に集中する。これらを積み重ねた先に、「この選手はこういう存在だった」という意味づけが生まれる。つまり、意味は後からついてくる。

    “ゾーンに入って楽しめるか”のほうが本質に近い。どの職業でも、最も高いパフォーマンスは、自己目的化した集中状態(ゾーン)から生まれる。
    「存在意義を証明しなきゃ」と思っているとき→ 自意識が邪魔をしてパフォーマンスは落ちる。「ただ目の前の仕事に没頭しているとき」→ 結果として存在意義が生まれる。禅や仏教の「無我の働き」にも近い。俺の思考OSとも親和性が高い。無我とは「自分を消す」ことではない。“自分という固定的な立場に執着しない”という態度。

    「存在意義を賭けて戦う」というナラティブは、観客・メディア・ファンにとってはドラマティックだが、当のプレイヤーにとってはゾーンへの入り口を塞ぐ“ノイズ”になりやすい。存在意義は“結果として生まれる物語”であって、戦う理由ではない。

    一球に向き合う姿だけが、本質を示す。

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