当地は異常に早い梅雨明けからしばらくたち、一種の戻り梅雨のような気配であるが、明日からまた夏空が続くようである。とはいえ、夏至から約ひと月、昼間はともかく日暮れ頃になると少しずつ秋の気配を感ずる。まだまだ釣瓶落としとまでは行かないにせよ、闇の深さが違う気がする。
何度も書いているが、夏の選手権というのは真夏の祭典のようであって、実は名残の夏の風物詩なのである。1969年夏の決勝再試合を実況した故中村哲夫アナウンサーが「太田幸司に1日遅れの秋が来ました」と言ったり、1987年に「熱闘甲子園」のキャスターであった故江森陽弘が最終回にハーモニカで「赤とんぼ」を吹いたのも、その意味から理解してよいだろう。
そんな旧暦水無月の下旬(ただし今年は閏6月があるらしい)、まだまだ日暮れは遅いが、少しずつ夜の帳が深くなっていったように感じた。やがて葉月になると、本格的に暦の上では秋である。事実、8月末にもなると、夜はもう秋のそれだ。
つらつらとセンチメンタルスティックに書いてみたのは、やはりカープにはすでに秋が来ているからである。なんせここまでの醜態を晒しておきながら、補強の声のひとつも聞こえてこない。昨年は両外国人がすべてクズという中で補強一つしなかったから、ファビモンがそれなりに結果出している今年は絶対に動かないと見ていたが、案の定だった。
本当にね、この現状を一部カープファンが嬉々として受け入れているのが、信じられない。タイガースが貪欲に外国人投手を補強し、ジャイアンツが育成から2人支配下に上げ(ひとりは故障してしむったが、それで終わりではあるまい)、ベイスターズは藤浪晋太郎を獲得したのにである。よっぽどカープは、いや早い話ハジメは、チームを強化する意思がないらしい。
そう言うとしたり顔したファンが、補強しても結果が出るかわからない、ならば現有戦力の底上げでなどと抜かすのだが、おかしい。というより間違っている。理由?言わなきゃいかんかい?なら言うが、
その1。補強は確かにギャンブルめいたところがある。ましてやシーズン途中のそれはそうだ。でもギャンブルも張らなければ当たらない。それが補強である。それを否定するなら、プロスポーツチームは存在し得ない。
その2。近年のカープで、現有戦力の底上げに成功した例がどれだけあるか。実はこれもある程度ギャンプルめいた要素があるのだ。しかし、それに乗らなければ、結果も出る訳がない。虎穴に入らずんば虎子を得ず、である。
要するに、今のカープは選手もスタッツも、リスクを取ろうとしないのだ。しかし、それなしに現状プラスの結果が出るわけがない。それを避け続けるのは、私に言わせれば、臆病だ。まさに広島臆病カープではないか。
だから勝てないのだ。別にプロ野球だけがそうではない。仕事だって受験だって、ある意味ギャンブル的要素はある。それを否定したら、何も立ち行かなくなる。しかし、カープというチームは、それを否定し続ける。だから勝てないのだ。
そもそも、そんな勝負事に臆病なチームなんて、プロスポーツとしてはレゾンデートルがない。見る価値もないし見せる価値もない。ないない尽くしない尽くしである。そんなあり方を支持するファンともども消えてなくなってしまえばいいと思う。
まあ、だからといって、諦めはしないけどね。辛くとも、悲しくても、そしてひとりになっても。






コメント
ファビモンが「それなりの結果を出している」のは微妙だけどね。OPSのランクC(良い・合格点)が.767~.833で、その上にはランクB(非常に良い)が.834~.899、ランクA(素晴らしい)が.900以上のランク付けから見ると、ファビアンの.747はランクDで並。モンテロの.693はランクEで平均以下。この結果からすると、助っ人というバイアスをかけず一選手として見ても働きは不十分だと思う。この数年、助っ人の質が極端に悪かった影響で、ファビモンが良く映る錯覚に陥っているだけちゃうかなぁ。
ファビモン程度で満足するところが、レベルが低いファンを物語っている。ファンのレベルが低いからオーナーに舐められるねん。普通の感覚を持ってるオーナーなら、もう一枚、野手助っ人を獲りにいくのは当たり前だけど、赤チームオーナーはオカイシイから何もしない。こういう”abnormal person”には、とっとと退場してもらわないと。
ところで、文中にあるレゾンデートルって、他人にとっての自分の存在意義、自分にとっての自分の存在意義を見出す西洋哲学で、絶望と向き合いながらも、自分の生きる意味を見出すという文脈で使われると思う。仏教とは対極にある思想なので仏教徒には馴染まないんだよね。「私たちがこの世に存在していることにはどのような意味があるのですか」という質問に対する仏教からの答は、「私たちがこの世に存在していることには、なんの意味もありません」と。仏教も、そして物理学も等しく、「人はこの世にたまたま生まれてくるものであって、そこに特別な意味はない」と考える。
人生に生きる意味はないが、人生の中で生きる意味を作っていくことはできる。これが、仏教の人生観。やはり存在意義を必死で見出そうとする西洋哲学には「力み」が感じられ、脱力を良しとする思考の者とは、相容れない関係にあると思う。西洋哲学を学ぶことに意義はあるかもしれないが、外来種でも生まれながらの日本国籍なので、反射的に仏教に基づいた行動を取っている。
赤色に染まった都道府県の学校給食では、「いただきます」は仏教語なので良くないと禁止にし、「せーの」の号令で食事を始める。西洋にかぶれるとこうなる。