昨年までの閉塞感のようなものは、確かに薄いかもしれない。なんと言っても3年間も重しのようにのさばっていた佐々岡という盆暗監督は、もういない。それだけでも、かなり違うのかもしれない。しかし、それでは雲が晴れたようにクリアな空かといわれたら、きっと違う。正直言って、まだうすどんよりとした空気に覆われているという方が正当だろう。
昨年の佐々岡解任劇から今に至るまで見せられたものは、新井貴浩にすがれば救われるとでもいいたいような一種カルト的な空気であるといってよい。本来なら失われた四年間を総括し、あの忌まわしき「失われた二十余年」の二の舞を演じないようにするべきなのだが、そのためにこの球団が何をしたかといえば、何もない。まさに弥陀の本願よろしく、ただ一筋に新井貴浩と念ずれば解決するとでもいいたげないい加減な空気には、辟易するのである。
しかし、カープファンの空気もまた、残念なほどぬるい。アライさんなら大丈夫とでも言いたげなムードが蔓延している。新井だって、今のところは人柄が売りで指導者経験に乏しいことは、佐々岡と変わらないのだが、その点は見事に捨象されている。まあ評論家としての仕事ぶりは佐々岡の何百倍もましだったことは間違いないが、それは指揮官としての仕事とはリンクしないはずだ。事実、評論家としては素晴らしくても指揮官としては案外という人もいたのだ。
そういう意味では、長いオフシーズンが終わり、「球界の正月」を明日に控えた今日、カープに美しい夢を見ることが、非常に難しいのだ。本来ならこんなことあってはならないのだが、けしからぬことに球団当局者はそれでほっかむりするし、もの知らぬ多くのファンはそれを容認している。ふざけんなと言いたい。
ほんとうに、カープがそこにあれば負けてもいいといって倦まない最近のファンには、辟易する。こんなファンがいるからカープは勝てないんだと思う。そりゃそうだ。ただでさえ勝てないものをその傷をなめてくれる客ばっかりだったら、必死になって勝とうなどと思うものか。そういう必死さが、今のカープには見えないのだ。いつぞやも書いたが、今日の仕事をなんとかやり過ごせばいいという程度の必死さはあっても、死んでも成し遂げるという命がけの必死さがないといっていい。
しかし、それでも夢は見たい。一縷の望みは、新井が佐々岡の誤りを客観的に眺め、それを反面教師として批判的に摂取することである。今のカープが変わるには、それしかない。新井に本当に出来るかという思いと、ある意味新井にしか出来ない仕事かもしれないというAmbivalentな感傷があることは、正直に告白する。ならば、さあ新井思う存分暴れてくれと、騙される覚悟で眺めてもよいと思うのである。
まずは明日からのスプリングキャンプ、昨年まではJSPORTS1の録画中継でチェックしていたのだが、今年からはライヴ放送を録画してみることにしている。まあ明日何か変わったことが起きるとは思わないが、楽しみにしよう。






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