救い難き敗北主義者たちへのRequiem

そりゃ143試合もプロ選手が戦ったら、1試合も落とさないなどということはあり得ないのであって、シーズン50敗でぶっちぎりの独走ペースなのである。だから、その程度の敗北は結果論として織り込み済みであることは、いうまでもない。

しかし、残念ながらもの知らぬカープファンは、そこからの思考が間違っている。結果論としての敗北は仕方がない。それは真実だ。だからといって、全試合勝ちに行かなくていいという態度は、プロとして間違っているのだ。でも何か最近のファンはそういう態度を容認しているかのように思えるのである。そもそも最初から勝てなくてもいいやなどと思っているチームは、弱い。

なんといってもプロ野球の試合というものは、すべての人にとって一期一会である。私だって次に見に行くであろう試合(今のところ予定ないけど)が生涯最後になるかもしれないし、グラウンドに立っている選手だって明日の出場が保証されているわけではない。マウンドに上がるピッチャーはなおのことである。アントニオ猪木ではないが、マウンドに上がる前から負けてもいいと思うバカいるか、ではないか。

その一期一会の邂逅の中で、選手が勝利を目指して全力で戦うところに、興行としての価値があり、感動が生まれるのだ。申し訳ないが、その前提が欠けていたら、見る価値も見せる価値もない。いっときのカープ、いわゆる「失われた二十余年」のときは、まさにそうだった。今のカープも、そうなりつつあるような気がする。

だって、それを受け入れろという敗北主義者がいるからね。酷いのになると、それを押しつけるのに暴力的言動を使う。アホか。

何度も言うが、推しのプロスポーツチーム(アマチュアは別だよ。raison d’êtreが異なるんだから)に対する正しい態度は、すべての試合勝てと念ずることである。その中で、ある程度の敗北はやむなしとして受け入れればよいだけだ。ここでも「ある程度」の数であることが大事で、惜しい負けを100回繰り返したら莫迦である。内容のない白星を100個集めたら大正義だが。

それにしてもこんなこと、ほかの球団やプロスポーツチームでは当たり前のことだ。弱くなっても応援するということと、弱くなり続けているチームをおかしいと思うことは別だ。そんなことをいわなければならないほど、カープを巡るサークルは腐りきっているのだ。ばかばかしい。

ただ、最近のカープファンを見ると、敗北に対する嫌悪感と勝利への飢餓感が見えているらしいことは、いえる。ある意味これは佐々岡という当代一の盆暗監督だった人の残した置き土産なのかもしれない。そう、今がチャンスだ。こんな敗北主義的思潮など、過去帳送りにしてしまえ。いや、もうなってるよね。

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コメント

“救い難き敗北主義者たちへのRequiem” への1件のコメント

  1. Иван Ивановичのアバター
    Иван Иванович

    前に少し触れたけれど、阪神地区で知り合いのカープファンは激減しているといって過言じゃない。残っているのは、ほぼカルト信者だけなんじゃないかなぁ。そういう連中とは元々反目しあう関係で、負けてもヘラヘラしながらグッズを買っている、こういうのを正真正銘の「負け組」と言う。日教組に負け犬根性を刷り込まれたヘタレで、そんな連中と同列に「カープファン」と括られたくはない、という思いからファンをやめていく人が多いような気がする。負けても怒らない連中って、ファンでも何でもないだろ。気持ち悪いんだよ。

    先の大戦で日本の非戦闘員80万人死亡って、完全に米国による虐殺であり戦争犯罪だろ。それに怒らず声をも上げない政府と国民が、カープのカルトファンと重なるんだよねえ。

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