神無月の半ば、深まる秋の気配とともに蘇るのは、1988年10月19日というNPB史に刻まれた激動の記憶である。予備校の寮で耳にした「南海ホークスの歌」の音色と、浪人時代の京都を覆っていたどんよりとした時雨空。空白の記憶の合間に残されたあの日々の断片は、38年の時を超えていま、ひとつの結節点へと繋がっていく。
松田家により一元的に統制された広島という街の鬱屈から離脱する決意と、かつて手放したホークスファンクラブへの回帰。パ・リーグ激動の記憶と自身の半生を交錯させながら、都市と個人の距離感、そして去りゆく街への想いを叙情豊かに綴る特別コラム。
【時雨空の記憶】38年前の10月19日と京都の時雨
夜のローカルニュースで「カープ選手逮捕」という文字が目に飛び込んできた。一瞬、また誰かが不祥事を起こしたのかとヒヤリとしたが、横に小さく「元」の文字を見つけて胸をなでおろした。もちろん安易に胸をなでおろしてよい話ではないのだが、新たな現役の勾留者が出なかったことだけは幸いであった。それにしても多田大輔という男が、単に不真面目という言葉だけでは片付けられない道を踏み外していたことを知るのは、どこか寂しいものがある。
それはさておき、神無月も半ばを過ぎて十九日。暦の上ではすっかり秋深まる時候となった。あっという間に日が落ちる釣瓶落としの夜の帳に、季節の深まりを感じずにはいられない。そろそろ京都の街では、鈍色の空からぐずぐずと時雨れ始めている頃だろうか。かつて京都に暮らしていた時期、私が最も気を滅入らせたのは、盆地特有の夏の酷暑でも比叡颪が吹き荒ぶ冬の極寒でもなく、この秋のどんよりとした時雨空であった。
なぜそんな記憶が不意に蘇ったのかといえば、暦が10月19日を指すと、否が応でも38年前のあの日の記憶が呼び覚まされるからだ。1988年10月19日。NPBの歴史において今なお語り継がれる、激動の一日である。この試合そのものの顛末についてはすでに各所で語り尽くされているし、私自身も何度も書いてきた。だから今回はその周辺にある、私自身のささやかな余話について記しておきたい。
運命の日から4日前の10月15日については、先日も触れた通りだ。予備校の授業をサボって大阪球場へ駆けつける度胸も気力もなく、私は寮の部屋でラジオの中継に耳を傾けていた。不思議と当時の記憶の大半は欠落しているのだが、鶴岡一人御大や杉浦忠監督のスピーチを聞いて我に返り、最後の「南海ホークスの歌」のトランペットソロに合わせて球団旗がしずかに降納された場面で、どっと押し寄せてきた寂しさと悲しさだけは鮮明に残っている。
その後の数日間の記憶は、ほとんど霧に包まれている。次に明確に覚えているのは、10月19日の午後3時。運命のダブルヘッダー第1試合が始まった瞬間である。そこからの出来事をここで繰り返すことはしない。試合が終わったあと、私は完全な放心状態となり、自らの野球観をホークスに殉じさせるのではなく、近鉄バファローズの戦いを追うことで引き継ごうと静かに決意した。まさかそこから16年後に、再び球界を揺るがす大激動が訪れようとは、知る由もなかった。
予備校の寮に身を置いていた以上、当然ながら志望校——鴨川のほとりに佇む時計台のある大学へ向けて勉強に励んでいたはずなのだが、その頃から共通一次試験に至るまでの記憶は見事なまでに抜け落ちている。身を削るように必死で机に向かったという実感が残っていないのだ。だからこそ後に広島の地に流れ着く結果となったのだろうが、その空白の時間を埋める記憶といえば、あの晩秋の京都を覆っていた鈍色の時雨空ばかりなのである。
奇妙なことに、その5年後に首尾よく上洛を果たし、憧れだった時計台の大学の門をくぐった際には、あれほど嫌悪した秋の時雨空に気を病むことはなかった。1993年という年は夏からずっと雨模様でぐずついた天気が続いていたのだが、若さゆえの気張りのようなものが勝っていたのかもしれぬ。もっとも、やはり根の体質に合わなかったのか、スクーリングや講義のない日は部屋で寝てばかりいた記憶はある。もっと真摯に学問に向き合っていれば別の人生も拓けていただろうかと、いま振り返ると思うこともあるが、過ぎ去った時間に「もし」は存在しない。
【別れの予感】広島という街の鬱屈とホークスへの回帰
そして今年、私は本格的に広島の街を去る決意を固めた。もちろん明日明後日にすぐ移転するというわけではないし、悠々自適の隠遁生活を送るほどの資産的余裕があるわけでもない。これから先、どこに身を置き、どこで職を得るのかも定かではない。長年暮らした広島に恩義がないわけではないが、「この街は自分が身を置くべき場所ではなかったのではないか」という思いが、いま冷徹な確信として自分の中に芽生えている。私にとって、この街に留まるための未練は、もはやサンフレッチェの存在くらいしか残されていないのだ。
以前にも認めたが、カープという球団を追う上で、広島という土地柄は決して恵まれた環境とは言えない。情報は常に一元的かつ無批判に統制され、距離が近いからこそ球団の嫌な部分や不誠実な構造が、嫌でも視界に入り込んでくる。テレビの試合中継にしても、地元でありながらホームゲームの放送をまともに観られないという奇妙な逆転現象が常態化している。画面から流れる解説は幇間芸人のような身内擁護に終始し、アナウンサーの質に至っては論外と言うほかない。こうした歪んだ環境から適度な距離を置き、俯瞰して眺めるほうが、精神衛生上よほど健全なのではないか。
その心の隙間を埋めるためというわけでもないが、1988年の10月に一度手放したホークスのファンクラブに、巡り巡って再び入会することに決めた。「バファローズではダメなのか」と問われるかもしれないが、現在のオリックスバファローズは私にとってどうしても「フェイクバファローズ」の域を出ないのだ。かつての近鉄の血脈を感じて心から手を叩くことがどうしてもできない。もし宮内義彦が表舞台から去り、その事業を継いだ者が「あの合併劇は誤りだった」と正式に認める日が来れば思い直すかもしれないが、球団経営陣がそのような過去の否認を行うことなど天地がひっくり返ってもあり得ないだろう。
もし来季もホークスが「南海ホークス復刻イベント」を開催してくれ、その時に私が関西の地に移り住んでいれば、迷わず京セラドーム大阪へと足を運ぶつもりだ。その時、ドームのスタンドで自分はどんな思いを抱くのだろう。「南海ホークスの歌」が場内に響き渡るだけで、こみ上げるものがあるかもしれない。ただ、その舞台が京セラドーム大阪——かつて大阪近鉄バファローズが本拠地としたあの場所であるという事実に、一抹の切なさと皮肉を感じずにはいられないのだが。
最後に、本稿ではあえて内容に深く触れなかった1988年10月19日のダブルヘッダーについて補足しておきたい。あの歴史的な一日はかつて『Number』でビデオ化され、後に朝日放送からDVDとしても復刻されているため、現在でもその映像を観ることは可能だ。しかし残念ながら、DVD版では第1試合の劇的な展開が大幅にカットされている。あの一極のドラマは、第1試合の感動的な勝利という前奏曲があってこそ第2試合の悲劇性が際立つのだが、この編集は放送局の怠慢によるものではない。第1試合でロッテの先発を務めた投手が、現在無期懲役の服役囚となっているという重い事情があるためだ。彼はマリーンズファンやオリオンズファンの記憶を汚しただけでなく、バファローズファンの大切な歴史の1ページにも、取り返しのつかない影を落としてしまったのである。
過ぎ去った時間に「もし」を求めても意味はない。南海ホークスの終焉から始まった私の38年間は、いくつもの街と劇的な野球史の影を交差させながら、再びひとつの原点へと戻ろうとしている。
かつて近鉄バファローズが劇闘を繰り広げた京セラドームのスタンドで、再び緑の旗に思いを馳せるその日、私は広島という街を遠く離れた場所から静かに振り返っているのかもしれない。時代がどんなに形を変えようとも、あの秋の時雨空とともに刻まれた記憶だけは、決して消えることがないのだから。
人気ブログランキング

コメント