広島にあるプロフェッショナルは、スポーツチームだけではない。広島交響楽団という立派なプロオケがある。何度かライヴ演奏を見に行ったことがあるが、そのうち「第九ひろしま」を過去2回見に行った話は、旧ブログ時代に書いたことがある。初回は2010年。今は亡き佐藤しのぶがソリストで、透き通るようなソプラノに感銘を受けた覚えがある。つられて彼女のCDを1枚買った記憶がある。
一番感銘を受けたのは2012年。広島ゆかりの大植英次の指揮と進行で行われたもので、その時の感想はかつて書いたとおりである。まさにあれこそライヴだという気がしてならない。もしあれを全部録音したCDや録画したDVDを見たところで、あのときの感動を裏打ちすることはきっと出来ないだろう。まあ大植英次は大フィルを指揮してきたから、客を飽きさせない技術には優れているのかもしれないが、自分から感極まってしまう性質もあるらしい。
そういう意味では音楽というのはライヴこそ価値があるのかもしれない。しかしその一方でライヴとは儚いものである。かのセルジュ・チェリビダッケは基本的に録音を許さなかったというのも分かる気がする。その一方で録音を残さないということは後世に価値が残らないともいえる。だから難しい。もっとも音楽なんてそもそもそんなものなのかもしれないが。
その意味では、多数の録音を残した「帝王」ヘルベルト・フォン・カラヤンはやはり凄いというべきなのである。クラシック音楽をクラシックのままにせず、いわば大衆芸能に下ろした功績は大きいのだ。彼がいなければ、ベルリン・フィルもウィーン・フィルもとっくに好事家だけのものになっていたかもしれないのである。
しかし、やはりライヴの魔力というのは捨てがたい。私だって一度はフィルハーモニーや楽友協会に行ってみたい。もうすぐニューイヤーコンサートだが、一生に一度は和装で決めて出かけてみたい。そもそもカラヤンとかレニーとかケーゲルとかチェリとか今は亡き人ばかりCDで追いかけるよりは、現在の超一流のマエストロの手になる音楽をライヴで聞くに越したことはないのだ。それが大衆芸能というものではないか。
ところで、広島という街はプロフェッショナルのライヴに接するには事欠かない。芸能はほとんどスルーされてしまうが、スポーツならライヴの宝庫だ。野球サッカーバスケットバレーのライヴに接することができ、しかもそれらは全て日本一を経験しているのである(バレーは正式なプロ化前だが)。こんな恵まれた環境は、よそにはそうそうないのである。
しかし、肝心の野球は、もうライヴの魔力にかからなくなっている。はっきり言って、見ていて眠いのだ。なんで非力なチビの祭典を見せられなきゃいけないのか。しかも見せ方が稚拙だし、盛り上げ方はもっとヘタクソだから、あくびしか出ないのである。というより、正直言って眠い。眠気覚ましに本が読めるくらいである。
実はサッカーもかつては似たような環境だった。しかし、エディオンピースウイング広島が全てを変えた。まさにあれはライヴである。私の妻などサッカーは野球と違って90分で終わるからいいという程度だったのに、一度見に行ってまた行きたいと言ったくらいである。まさにライヴの魔力にかかったのである。プロの興行たるもの、こうでなければいけない。
私だって、初めてカープの試合を見に行った1979年8月30日の感激は、いまだに忘れない。オープン戦ながら姫路球場や明石球場で見た試合の感動も覚えている。今はどうか知らないが、特に姫路球場は内野スタンドとグラウンドの間が近く、しかもバックネット裏を別としたら低い柵があるだけだったので、非常に選手との間が近かったのである。いまだにその時撮った写真も残っている。況んや、はじめて広島市民球場のスタンドに降り立った1989年4月8日をや。
それなのに、今やカープの試合は映像ですら見るのが怠くなっている。もう文字列で十分じゃないのと思いたいくらいである。ましてやライトなファンはもっとそうだろう。もはや野球なんて興味の外という人が多くなっているだろう。広島においても。それなのに情報だけ過多だから救われない。しかもその大半は間違っているか歪められているかなのだが。
そう、今やカープなんて、見る価値なし、映す価値なしなのである。要するに大衆芸能としては終焉を迎えているといっていい。だって、勝つ気ないのだから。勝たなくてもいいというアホなファンがまみれているのだから。しかもそういうアホなファンは我こそが正しいファンのあり方という重大な勘違いを抱えている。まさに処置なしだ。
このまままでは、カープは悲劇的な終焉を迎える。そのシナリオは、今は書かない。
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