どうも先日来、自らのIdentity崩壊の危機に悩んでいる。はっきり言ってなんで自分がカープなるものを推しているのかについて自己嫌悪にも近いものを持っているのだ。それは自分の過去と生き様に対する自己否定に他ならないし、自分の血となり肉となっているものの自己切開をやっているようなものである。でも、それをやりたい気分に駆られるのだ。
それは何故なのか。カープというものが浸かっているぬるま湯性なのか、それともそれを推している向きへの忌ま忌ましさなのか。まったく分からない。しかし、今の自分は前者寄りなのかもしれない。こんなチーム、こんな選手推せるかという気持ちが勝っている。というより、推せるポイントがあれば教えてほしいくらいである。そのくらい、酷い状態だ。
どうして、カープは勝てるチームではなくなったのだろうか。いや、そんなの理由はさんざん書いてきたことだから繰り返さない。問題はそれを何故みんな受け入れているのだろうかということに尽きる。カープはプロだ。しかもプロスポーツ興行をやっているのだ。勝つことしか存在価値はないはずだ。それが分かってもらえないことへの無情感が強いのかもLしれない。
はっきり言って、よくこんな選手が主力に並んでいると思っている。そもそもプロを名乗る資格のないような選手がスターでございと大きな顔をしているのが一番許せないのだ。いや、それを自称ファンが許しているどころか、それが当然の如く振る舞っているのがもっと許せない。さらに許せないのが、小園のような数少ないスター選手をぞんざいに扱うことである。
その自称主力選手ども、まったく鍛錬の後が見られない。それどころか危機感すらない。矢野なんてヒットは全部単打でいいとかいうアホなことを言ったようだが、それはプロの見世物ではないから消えてなくなれと言いたい。そんな選手、相手には怖くないのだ。それも理解できないほど頭の中身が弱いということであって、要するにいらない。
矢野とか羽月をレギュラーに推す向きは、本当に頭が弱いのだと思う。非力で打球が外野の頭を越えないようなバッターは存在意義がないのだ。どうして過去の福本豊や大石大二郎、今なら近本光司を分析し、それに近づくべく努力しないのだろうか。きっと分析できるほど頭がよくないのもあるだろうが、そもそも現状で満足しているという面もあるのではないか。
かつては違った。カープのスター選手はキラキラと光り輝いていた。単に見た目がよいだけではなく、残す結果でそれを輝かせていたのだ。金やダイヤモンドだけではなく、本当の意味での「燻し銀」がいた。知らない人が多いかもしれないが、銀を燻せば金色に光るのである。くすんだ色が燻し銀ではない。多くの自称ファンたちはそれをはき違えている。
だから、今の私は風車に楯突くドン・キホーテのようなものなのだ。あるいは名前だけ多数派を騙るイリイチか。親愛なるKarlのいうとおり、歴史に発展法則なるものがあるなら(私はそれは信じないが)、今のカープは資本主義社会どころか農奴制に近いのかもしれない。要するに革命の胎動すら起こりえないのだろう。なんとも虚しい。
つらつらと書いていたら長くなってしまった。疲れたのでこの程度にしておくが、ひとつだけ付け加えると、カープファンをやるのが嫌になった決定的な要因は以上のことではない。ある事象が引き金を引き、今のカープの嫌な面が全部私の心を苛んだというのが正しい。ちなみに、三文週刊誌やWEB記事ではないことは補足しておく。
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コメント
カープへの熱量の低下というより、俺の場合、スポーツ全般、取り分け野球&サッカーの観戦頻度が下がっている。
スポーツ観戦の本質は「予測不能な物語を楽しむこと」でしょ。ところが今の主要スポーツは、どれも物語性が崩壊している。
NPB:球団経営者の固定化、チーム数が少なく対戦カードがマンネリ、データ野球の“中途半端な導入”で戦略が画一化、投手の質が高くないのに投高打低、1シーズンで「心が震える試合」がほぼ無い等々、物語の“揺らぎ”が消えている。
MLB:強豪チームの資金力差が極端、データ野球の徹底で“最適解”が固定化、試合展開が読める、ピッチクロックを導入しても試合が長い等々、物語が“計算可能なシミュレーション”に近づいている。
サッカー: 世界的に戦略が均質化、日本も同じ方向、どのチームも似たような試合運び等々、物語の“個性”が消えている。
スポーツは本来「不確実性の芸術」なのに、今は「最適化された作業」に近づいている。
これは、AIがチェスや将棋を最適化した結果、人間同士の対局が単調化した現象と似ている。
現代スポーツが“物語を生む装置”ではなくなった。
一言で表すと『退屈』
では、罠だと分かっている場所🐎に、逝ってきまっさー。
“今週の罠は違う気がする”と本気で思っている(笑)。