今日は、家の用事があった関係で、1日休暇ではあったのだが、普段のように全くのidlenessを決め込むわけには行かなかった。しかし、まったく精神的な疲労はない。むしろ頭は時間を追うにつれてcrystal clearになっていくようだ。これが普段の平日だと、家に帰ると心も身体もぐったり疲れてしまって、何もやることが起こらないことが多い。
たとえ不肖この私にでも、職業人としては五分の魂があるから、当然のごとくどんな細かいミスすらもしないように細心の注意を払っている。別にそんなこと胸を張って言うことではなくて、お仕事をされている方は当然そうだろう。だから、仕事が終わるとかなり気疲れしてしまうのだ。
況や、職業野球の選手をや。打たないでやろうと思って打てないのもいなけりゃエラーしようと思ってするやつもいない。特に先発ピッチャーはマウンドに立てばまず完全試合を、ノーヒットノーランを目指すとはよく言われていることである。しかし、野球は相手あるスポーツだから、そうならないだけのことだ。
しかし、失敗にもいろいろある。我々だって、軽微なケアレスミスやリカバリィ可能なものもあれば、出た時点で洒落にならないミスだってある。前者はまあ仕方ないと言えるのだが、後者は仕方ないで済まされないのだ。これも職業人の方ならお分かりだろう。
これを野球に置き換えたらどうか。エラーとか走塁ミスなどはつきものとは言え、やはりあってはならないミスというのは確かに存在する。特に試合の流れを変えるようなミスはきっちりとその原因を追究して、二度とないようにしなければならない、はずだ。
時々頭の弱いのがいて、野球は10回打って7回失敗しても一流のスポーツだ、というのがいる。しかしこれはおかしい。それなりの速さで飛んでくる球を棒状のバットで打ち返すのだから、ヒットにならないというのは野球というスポーツに内在する制約というべきなのだ。これを失敗と例えるのは、本来誤りであると思う。それに、完璧にとらえた打球が相手のグラブに収まったらだめだが、当たりそこないが相手野手のいないところに落ちたら良いということもあるのだ。
話をつらつら長引かせたが、やはり先のドラゴンズ戦で犯した羽月の走塁ミスは、絶対にあってはならないミスだと思う。しかも羽月は、足のスペシャリストということでその存在意義が持ち得ている選手ではないか。ならば、余計にありえないものだったのだ。中にはボスラーの足がとか言うのもいるが、全く抗弁にならない。
けしからぬことに羽月の場合、これが初めてではない。むしろしょっちゅうやらかしている。もちろん盗塁を試みてアウトになることには何も言わないが、今回のようなミスがあまりにも多いのだ。一昨日昨日と代走1番手に久保が起用されたのは、やむを得ない。もっとも、新井が本当に羽月に対してお灸を据えた結果なのかは分からない。
ついでにいうと、私は矢野についても名手とは評価していないのだが、理由は同じである。確かにヒット1本奪うような華麗な守備とバカ肩は評価できるのだが、時折ありえないような凡ミスが見られるのが評価を下げる理由だ。矢野なんて打撃は十人並み以下なんだから、守りで隙を見せていては本来だめなのだ。
もっとも、この2人だけ槍玉にあげるのはフェアではないかもしれない。これは今のカープの選手に共通の病理と言える。バット1本、出た以上は何か事を起こすとか、足では、あるいは守りでは絶対に失敗しないとかいうものが見られないのだ。結局のところ、前述した「野球は失敗のスポーツである」という誤解が招いた悲喜劇といえるのではないか。
このところ私はプロレスというものをネガティヴなものの象徴として使っているが、アントニオ猪木が言った「出る前から負けること考えるバカいるかよ!」というのは蓋し名言であると思う。戦った結果、勝ちと負けに別れることは受け入れなければならない事実だ。しかし、負けてもいい、失敗してもいいと最初から思って戦いに臨むのは、プロフェッショナル失格であると思う。それははっきり言えばアマチュアである。
今のカープの選手を見ていて残念に思うのは、意地でもやってやる、絶対に失敗しないという心意気が見られないことだ。だから鉄火場に出たら簡単に転がされるのである。もちろん、持っていないとは思わない。そんなに安穏と構えていたら、命を落とすだろう。鉛が芯の球が150キロで飛んで来る場所に立っているのだから。
しかし、これもしつこくいうようだが、気を抜かずに一生懸命やっているというのは、プロにとっては何の免罪符にならない。プロは結果論の世界なのだ。もっと言うなら、一生懸命さにもいろいろあって、今日の仕事が終わればいいという一生懸命もあれば命懸けの一生懸命もあるんだということは、何度も書いた。
主戦場こそ違うが、不肖この私も仕事の上では事あるごとに「命懸けの一生懸命だったか」と自分に問うているし、あとから思うに少しでも気持ちが欠けていたなと反省することもある。ましてプロ野球というのはスポーツ興行だから、選手の動きに至るまで見せ物になるのだ。せめて外形だけでも気持ちの入ったプレイを見せてくれと言っても、罰は当たるまい。
もっと言えば、一生懸命さなんて、本来関係ないのかもしれない。もし鼻歌交じりで片手間に大谷翔平のような活躍ができる選手がいたとしたら、それは尊いというべきなのだ。プロはどこまでも結果論なのだから。






コメント
日本ハム創業者で日本ハムファイターズの初代オーナーの大社義規が部下に、「君、最近失敗しているか?」という問いに部下は「いいえ、失敗はひとつもありません」と鼻高々に答えると、オーナーは「失敗がひとつもないということは、何も挑戦していないことに等しい」と戒めたという。
本田宗一郎氏も「失敗することより、挑戦しないことを恐れろ」と社員に訓示している。
オモロイのはエジソンで、白熱灯を発明したとき新聞記者に「1万回失敗したのでは?」と訊かれると、「私は失敗したことは一度もない。1万とおりのうまくいかない方法がわかっただけだ」と答えている。
1から創出する新規開発の業務を行っていると、過程も結果も失敗で終わることなどざらにある。とはいっても、株式会社(社員)は政治家や公務員と違って、通年で利益を出さないと戦力外通告を受けることになるので、どこかで失敗した分を上回る成果を上げないといけない。しかも、辻褄合わせ程度の成果や利益では、「戦力外を免れる」には不十分だ。最低でも年収分の10倍、通常で50~100倍、最大で2000~3000倍の利益を叩き出して当然とみなされる部署・職種なので、労基法違反であろうが20連勤をやるしかない時期もある。
ただ、成功や失敗をどう定義するのか、その基準がわからない。という一例を挙げると。
アムステルダムで5月に行われたマーラーフェスティバルで、N響(NHK交響楽団)が演奏後ブーイングを浴びせられている。一応動画で視聴してみたのだが、何の「失敗」もなく無事演奏を終えている。金管楽器がやや精彩に欠けている印象はあるものの、全体的にきれいに整っている。けどしかし、どこか無機質で機械的。自動演奏機器のように正確に音を出しているだけ。という、日本のプロオケにありがちな特徴として、演奏の技術はハイレベルだけど、心に響かない。でもこれは個人的な感覚であり、技術的に失敗しているわけではない。俺の感想は、N響を含めNHKという組織は基本プライドが高く高飛車なので、ならもっとプロらしく仕事しろ、と思っている。そういう目に見えない部分の高慢な姿勢を、アムステルダムの聴衆は鋭く察知したのかもしれない。
野球選手は、走攻守すべてにおいて優れているのが「プロ」なんだから、走攻守のどこかに欠陥がある選手は、本来欠陥が改善されるまで1軍でプレイする資格がない。観客は欠陥アリの選手を観るためにカネを払っているわけではない。一部の能力しか発揮できない欠陥アリの選手は、一部しかない得意分野の失敗は許されない。