何度も書くようだが、今年3月1日からの日にちと曜日の並びは、あの恨めしき1988年と同じである。私自身は現役合格ならずに京都は京都でも駿台京都校とその学生寮との往復という灰色の生活を送り、その間に南海ホークス身売り、福岡移転という苦汁をなめた。ということもあってか、この間の記憶はまったくといっていいほど、ない。日曜日に当たっていた12月25日に大阪北予備校主催の「共通一次ファイナル」を受けに行った帰りに、半ばやけくそで梅田に出た破戒については、だいぶ前に書いた。
そして明けた1989年、1月7日に御代代わりという大変動があった年、またしても本命校の合格ならず、広島に落ち延びた。そのこと自体は決して悪いと思っていないが、第一志望の学校に入れなかったというつらさは、未だに消えない。それだけに、娘が第一志望校に、推薦とはいえ合格したことは、本人のためにもよかったと思うし、親としてもほっとしたのである。私の受験の勝負弱さを引き継がなかっただけでもよしとしたいところだ。
今から思えば、現役の年に早慶関関同立、いや私学を手広く腕試しででも受けていれば、どこかにひっかかったかもしれない。私の時代は指定校推薦はもちろんあったが今で言う総合選抜のような推薦入試はなかったので、一発勝負でなら勝てたのかもしれない。ただ、それも詮無い話だ。親に迷惑をかけたくないという思いから国立一本に絞ってしまった(当時は国立大学の学費は今と比較にならないほど安かった)のだが、それが裏目に出てしまった。
でも、今から思うに、多分私には必死さ、何度も言うようだが「死に物狂いの必死さ」が足らなかったのだろうと思う。それを勝負の神はよく見ておられたのだろう。まあそれに引き換え娘はよく頑張っていた。ペーパーテストの実力なら高3時点の私のほうが上だったと思うし、どう贔屓目に見ても国公立は厳しいし、私立も一般入試に回るとどうかなと思っていたが、よくそこまでにけりを付けたと思う。
これから4年間娘は関西での学生生活を送るが、本当にその点はうらやましい。これは正直なところ、学環境という点では絶対に広島より関西の方がいい。実はそのこともあって私からは京都の大学をまず薦めていたのだが、まあそこから先は本人の選択だからやむを得ない。
さて、まったく話は変わるが、我が家の戦いが終わったこともあって、ようやくゆっくりと外で酒を酌み交わせる機会が持てそうだ。ちょっと忘年会には間に合いそうにはないが、来年年初に大新年会をやりたいと思う。と、いうわけで、興味のある方は、ぜひこちらから御連絡いただきたい。






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