1989年のいまごろ。

おもひで

しつこいようだが、1989年のカレンダーの曜日の並びは今年と同じである。1989年3月11日土曜日は、広大の合格発表に当たっていて、まあ予定どおり合格通知をもらい(ただしどの程度の成績だったかは知らぬ)、それを確認して駿台京都校の寮から自宅に一時帰省した。3月16日木曜日は、束の間の休息を謳歌していた時期に当たる。もちろん、本命である京大の合格を信じて疑わなかったのであるが、悲劇は1週間後にやってくる。

この頃の記憶は、実につまらぬことだけよく覚えている。3月11日にはライオンズとのオープン戦がNHK第1ラジオで全国中継されていて、スコアは引き分けだったのだが9回裏に移籍してきたばかりの山田勉が同点ホームランを打った。3月16日の「晴れ時々たかじん」のゲストはジャイアント馬場だった、はずだ。

で、寮に戻ったのが3月22日。その日は確か寮のメンバーでソフトボールに興じた記憶があるが、それからの記憶は本当に見事にすっぽり抜け落ちている。その原因は、翌23日の悲劇にあることはいうまでもない。半ば放心状態で京都から新快速に乗り、赤穂が近づくにつれて涙がこぼれそうになり、帰宅して堰を切ったかのように大泣きしたことだけ記憶にある。そして翌24日に広島に行って入学手続きとアパート探しをしたのだが、めぼしい物件がなかったこと以外はほとんど記憶にない。

いや、ひとつだけある。府中市にいた母方の祖母がその前年から胃がんで床に伏していたのだが、気の重い報告をした直後に容態が急変し、4月13日に息を引き取った。その前年の入試の時はお百度参りをして合格を念じてくれたという話を聞いていたから、余計に心苦しく、悲しかった。その3年後の9月、京都大学に別の形でリベンジを果たしたときには、仏前に合格通知を供えたものである。

そんな1989年3月を経て今の自分があるのだが、それでもやくざな道を踏まずに済んだのは、カープに逃げたこともあるけれども、やっぱりそれなりに勉強しないと母方の祖母に面目が立たないと思ったことと、辛すぎる1年があったからこそ絶対広島では一番になってやるというスイッチが入ったことがあるのだろう。というとかっこよさげだが、下手に京大なんかに行ったらそこにたむろしている信じられないくらい頭のよい連中を目にしてそういう気にもなれなかったかもしれない、というくらいのことだ。

と、いうわけで、それから経過すること34年。今こうやって生きているし、しかるべき仕事もしているし、余暇でこうやってくだらない駄文も書いている。それでよかったのだろう。そこまで本当に死ぬ思いも何度もしたし、生きる意欲を失いかけたこともあった。現世への執着が弱かったら、今ここにいなかったかもしれない。でもこうやって生きてる。そのraison d’êtreはともかくとして。

今年の受験生の中にも、思った大学に行けなかった人もたくさんいるだろう。でも、勝負はあくまでもこれから。大学の代紋は、三文の価値もない。それにすがっていても、何も起こらない。球界にもいるけどね。入った球団の帽子に頼らないと生きていけないのって。そういうのって、結局ろくなもんじゃないんだよね。

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