私が過去、いや今でも最もよく読んでいる作家は宮脇俊三翁だし、最もよく聴いているシンガーはやしきたかじんである。共通点はひとつだけ、すでに鬼籍に入っているということだ。すなわち、もはや新作も出なければ新譜も出ない。しかし、飽きもせずに読み続け、聴き続けている。いや、たまに聴くクラシックのコレクションだって存命の指揮者はサイモン・ラトルと大植英次だけなのだが。
そう思うと、私の好みも相当偏ってるなという気がする。当たり前だが既存のもののリピート作業を毎回やってるに過ぎない。思えば、たぶんたかじんの次に聴いているシンガーであるももクロだって、実は新しい歌を追いかけていなくて、聴いてよいと思った曲をヘビロテしているだけなのが現状である。最近の移ろいやすい人の嗜好とは何か違うのかもしれない。
蓋し、新しいものを追っかけて行くだけが能じゃない。どんな作家でも書くものすべて珠玉の名作なんてことはありえないし、出す曲すべて感動の名作なんて歌手もありえない。宮脇俊三翁だって晩年の作品は不出来だし、「時刻表昭和史」のように意余りて言葉足らずのような作品もある(これはご本人が書いておられているところ)。たかじんだってももクロだって、刺さる曲もあればそうでない曲もある。
確かに鶴田浩二翁は「古いやつほど新しいものを欲しがる」ものだと歌った。しかし、一方でどこに新しいものがあるかとも歌っている。今の世の中も全くそうであって、最近のものはなんとなく全て古臭い気がする。なんか最近のもの、特に音楽は、後退著しい気がしてならない。正直なところ、何聴いても刺さらないし、たまにあったら実は昭和歌謡へのオマージュだったりするのである。
私が子どもの頃からよく聞いていた昭和歌謡は、従前からのビッグバンド、要はフルオケと、ビートルズ以降のエレキサウンドの絶妙な融合によるところ大きいと思う。そこに作曲家の職人芸が相俟って、豊潤なサウンドが出来上がったとするのが私の仮説である。そして、それを歌う側も上手い下手はともかく、ちゃんと腹から声を出して歌っていた。いや、そもそも下手くそな歌手は駆逐されていったのである。
いわゆるアイドル歌手だって、当時は「スター誕生」全盛期である。そこではとにかく徹底的に技量がチェックされた。審査員だった阿久悠翁の辛口チェックなんて今だったらSNSで徹底的に叩かれるだろう。とにかく、歌えて当たり前だったのである。そして、基本的な技量のない歌手はだいたい淘汰された。もちろん歌えたって華がなかったりして売れないケースがごまんとあるのはまた当たり前なのだが。
今はどうか。エレキの次に現れたのはシンセサイザーだが、シンセが今の音楽を貧相にしたというのが私のもうひとつの仮説である。今や打ち込みで曲を作らないアーティストはいないと思うが、なんか音が平板というか、ただ右から左に流れていくだけという感じがするのだ。要するに「職人芸」が消えていっていると言えばよいのだろうか。
萩原哲晶というクレージーキャッツの音楽を支えた作曲家・アレンジャーがいたが、氏にシンセを持たせたらきっととんでもない音楽ができただろうなという気がする。死の直前に手がけた「イエローサブマリン音頭」(大瀧詠一プロデュース)を聴くたびに思う。その一方で、シンセというのは誰でもそれなりにしかるべきものができるという機械だ。今生み出されている音楽の九分九厘はそうではないか。
それに輪をかけるのが、アーティスト渡渉する人の基本的技量のなさだ。私はことあるごとにMrs.GREEN APPLEを腐すが、彼らにはそういうものをちっとも感じないからである。はっきり言えば、時の権力者の庇護で売れてるだけだよねと言えのが丸わかりだから。別に彼らだけでなく、エレキとシンセに頼り切った歌にちっとも刺さらない歌詞、ファルセットでごまかした歌唱。いいところなんて何もない。
そう思うと、特に音楽の分野では、今生み出されているものに新しいものは何もないと言ってよいかもしれない。哀しいかな、それが現実だ。今が衰退しているというより、昔のほうが進みすぎていた側面があるのかもしれない。クレージーキャッツ、いわゆる「植木節」の数々や、今でもサブスクで聞けるトニー谷の歌った曲を聴くたびに、そう思うのである。
いや、こと音楽だけだろうか。赤い帽子のチームの野球なんか見ても、そう思えてならない。古葉竹識監督の野球がどうこうは時代性もあるから割り引いて見ざるを得ないにせよ、古葉さんのやキュアはモダンで先進的だったと思う。一方で新井貴浩の野球は、古臭い。というより、これが新井貴浩イズムだというものさえないのだろう。それをハジメが許さないという側面もあるんだろうけれども。
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