私だって子どもの頃軟式野球くらいやったことがあるが、中空でゴム製の軟式野球ボールですら、当たったらかなり痛い。ましてや鉛が芯で革製の硬式野球ボール、もちろん実物を所有しているけれども、そんなものが当たったら痛いどころの騒ぎじゃないことくらいはわかる。
そんな球が時速100キロ超で飛び交うグラウンドは、まさしく鉄火場だ。こんな中でぼんやりしていたら命にかかわることくらい、わかる。仮にもプロの選手である以上、プレイに一生懸命さがない、気が抜けているなどということはないとは、重々承知している。
だから、黙って見ていろというのがカープファン界隈で流れている言辞である。しかしそれは2つの理由から誤りである。以下簡潔に述べる。
1つ目。一生懸命やっているのがひと目で分かる、上本とか矢野くらいのパフォーマンスの選手と、鼻歌交じりで適当に野球やって、大谷翔平や鈴木誠也並みの結果出せるような選手を比較したら、後者のほうが断然尊いのだ。これはプロフェッショナルの掟である。これを受け入れられない向きは、プロ野球など見るのをやめるべきだ。
2つ目。プロフェッショナルならなおさらのこと、「一生懸命」さというのは、ひとつではない。何度も私は福山競馬の伝説の装蹄師であった故福永守翁の言葉を引用しているが、一生懸命には幾種類もある、今日の仕事が流れていけばいいという程度の一生懸命さもあれば、命懸けの一生懸命さもある。我々がプロスポーツに求めているもの、見ていて感動を覚えるものは、断然後者ではないか。
何をいいたいかと言うと、プロフェッショナルである以上、「一生懸命」なんて当たり前だ。我々はそんなの所与の前提で見ているのである。その上で、結果出せるかどうかが吟味されるのだ。これはどんなお仕事でも当たり前のことなのだが、ましてやプロスポーツは興行なのだ。それを見せてなんぼであるはずだ。
なのに、アマチュア的な「一生懸命」さを錦の御旗にする向きが多いことには辟易する。それは畢竟プロスポーツ選手を莫迦にしているのではないか。プロフェッショナルに対して子ども扱いしているようなものだから。結局一種の「贔屓の引き倒し」に如かず、である。
だから、彼らが評価されるべき基準は、結果出したかどうかだけでなくてはならないのだ。それがもっともフェアであり、もっとも選手をリスペクトしてのものなのである。かのイビチャだって、走れるだけなら銃を持ってボスニアに行ってこいと言ったのである。一生懸命プレイできるだけでは、やはりプロフェッショナルとしては価値がないのだ。
ファンのあり方はまあ人さまざまだから、これ以上口突っ込みたくないが、なんとなく「守ってあげたい」的な視点を持っている向きが多いのかな、という気がする。しかし、やっぱりそれはおかしい。そんなのプロスポーツ選手にとっては余計なお世話だろうし、そんなものに浸っているようなのがいたら、大概だめだ。
話は逸れるが、あーりんが石川柊太のために使った出囃子曲は、「仕事しろ!」である。この曲くらいの感性が、ちょうどいいのではないか。もっともあーりんはアイドルとしてはプロ中のプロなのであるが。






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