ある鯉党のたはごと2024最終章前編;「守破離」

スポーツ

昔の偉い人は含蓄のある言葉を残したもので、ことに時の試練に耐えたものほどそういえる。標題のことばもまさにそのひとつで、武道やら芸能やらの修行の過程を表すことばであって、今でもその訓えは応用できると思われるところだ。

要するに、師の教えを守る段階、そこから自立する段階、さらに自己のものを創造するする段階と順を追って進んでいくということだ。守るだけでも駄目で、新しいものが生まれないことになり、逆に伝統をベースにしない創造もあり得ないということなのだろう。

私は武道にも芸能にも疎く、唯一齧ったのは法学の世界でしかないが、この業界でも似たような言葉が残っている。以前も引用したが、民事訴訟法学の泰斗であられた三ケ月章博士の「3つの自由」である。すなわち、支配的学説からの自由、恩師の学説からの自由、昨日の自分の学説からの自由を言われたものである。

守破離に置き換えるなら、最初と2つ目が「破」、3つ目が「離」だろう。「守」は自明のことということに違いない。わが恩師のひとりは通説に対する懐疑と批判で満ちあふれた書をものしているが、やはり学習上のポイントとして「まず通説を理解しよう」とある。やはり、通説の理解なくして新たなものの創造はありえないということだろう。

もちろん私などは全く修行が足りていない人間なので、必要にかられてまとまったペーパーを書いたとき以外は、まず通説的見解を押さえることに終始していたし、そうせざるを得ない。また、どんな分野でもそうだが、必ず現在の通説にはそこに至るまでの思想史、学説史の蓄積がある。それを抑えずして、新しいものなど生み出せないのだ。

蓋し、今のカープの経営も現場もそしてファンも、この「守破離」に当てはめていくならば、あることに気がつくだろう。要するに、「守」がないのだ。いや、「守」がないから「破」も「離」もない。およそ論理的に成立していない根無し草のようなことをやっていると言わざるを得ないのだ。

その理由をひとことでいうと、「ハジメによる断絶」である。彼奴のやってきたことは、カープの伝統に根ざしたものでもなく、そこから自立したものでもないということだ。だから、過去からの自立、すなわち「離」ではなく、単なる個人の頭の中の創造物にすぎないということだ。今のカープは。

だから、なにやってもうまくいかないのである。「ハジメ以前」はカープにとってのゴールデンエイジだったにも拘らず、現状はそれを全否定しているのだ。だから上手くいくわけがない。伝統の理解なくして自立なし、なのだ。最初から上手くいかない道を歩んでいるのだ。だから、その先にあるものは被滅あるのみだ。

はっきり言う。今のカープのあり方のまま如何に足掻いたところで、何も生まれないし、何も残らない。お隣村の領導様の国がおよそ理屈に合わない「ウリ式」を唱えた末路がいかなるものであるかは、証明抜きで論じてよかろう。いや、カープファンはそれを笑えないのだ。だって、同じことをやっているのだから。そしてその批判者を暴力で封じ込めようとしているのだから。

一筋の光があるとするならば、渡邉恒雄の死だろう。ハジメがナベツネを後ろ盾にして権勢を振るっていたことは事実だ。そのナベツネなく、ナベツネの後釜も残念ながらいない。ハジメへの批判者がヒロシマ球界にいるかどうかは分からないが、なにか易姓革命が起こる前触れになればよいがと思っている。

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