27日は我が社も仕事納めである。きっと忙しくてばたばたできっと遅くなると思っていたから、更新しないつもりでいた。だから26日のうちに天使さんと悪魔さんに年内最終のご登場を願った。ところが、いざ当日になってみたら仕事がそうそうにはけて、早く帰れた。もちろんだからといって駄文をものす必要もないのだが、まあ思い出語りという体で書いてみたい。
昔は、仕事納めの日は、はっきり言えば呑む日だった。大昔はそもそも仕事をしないというコンセンサスがあったというが、まあそこまでいかなくとも定時になったあとはあちこちで酒を酌み交わしていたのである。いや、年末年始だけではなく、何かにつけては仕事場で呑んでいた記憶がある。なんならよく出入りしていた酒屋のおやじさんは我が社の中のことをよく知っていた。
ところが、今は違う。そういう風習は過去帳入りしてしまった。主たる理由は職員の気質の変化である。職場という共同体に17時以降まで縛られることをよしとしない層がほとんどを占めている。そもそも歓送迎会忘年会という年中行事が減ってしまっていた。そこに輪をかけたのがコロナ禍である。職場での飲み会というのはほぼ駆逐されたといっていい。まあやむを得ないのかもしれないし、呑みは気の合う仲間との方が良いが、なければないで些か寂しい。
もうひとつの理由は、世間の目とやらが厳しいことだろう。コンプライアンスだかなんだかしらないが、まったくくだらないと思う。世の中そんな高潔な人なんばかりなのかと嘯きたくなる。というより、だいたいそんな事言うのは暇な人間ばかりだ。そういうことをいって吊るし上げるのを楽しみにしている連中と言っていい。
中には、働くものは24時間365日働くのが当たり前と思っている向きもいる。アホかと思う。そういうのに限って暇だ。もっと言えば、コンプライアンスを叫ぶのに限って使い方を間違えている。彼らはそれをいかなる場合にでも適用される絶対的真理だと思っているようだが、噴飯ものだ。
特に理科系を自称するあほうに多いのだが、理科系の世界の公理は絶対だと勘違いしているようだ。しかし、斯界にも意外と絶対的真理というものが少ない。ユークリッド幾何だって、ある条件下のお約束に過ぎない。いや、1+1=2というのは残された聖域かもしれないが、これだって実数の世界のお約束でしかないのだ。
結局、親愛なるKarlではないが、「哲学の貧困」のなせる技だ。物事を突き詰めて考えたことのないから表面的な議論を盾に極端に走るのだ。それに、真理は一つではない。たとえば「人を殺してはならない」という命題が絶対なら死刑制度の存在はその基礎が崩れるし、いわゆる「カルネアデスの板」の命題が答えられなくなる。絶対的な真理など、実はないのかもしれないのだ。
そう、ないからこそ裁判が成立するのだ。すべての法律行為、すべての実行行為が現行法の規定によりその当不当が誰の目にも明白にわかるなら、裁判は機械でできるのだ。そうじゃないからこそ、裁判所の価値がある。
話が大幅に逸れた。少なくとも私の子供の頃までまでは、年末年始は仕事をしないというコンセンサスができていたのだ。まあお商売さんは年末は書き入れ時だが、そのかわりに年始は休んでいた。ところが今はそんなことをしたらお客さんが来なくなる。いきおい正月何日から開けるかというチキンゲームができてしまうのだ。
元検察官の郷原信郎弁護士には「法令遵守が日本を滅ぼす」という著作があるが、まあその指摘は半分は当たっていると感じる。その法令の立法事実は正当かというところに踏み込んで考えないと、結論を歪めるということも理解している。残念ながら、法を扱う者にもそれが理解できていないものが多いような気がする。
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