鯉に溺れて流されて。

スポーツ

思えばカープファンやって随分長くなった。初めてカープを意識したのはいつ頃か忘れてしまったが、遅くとも1979年にはカープファンたるアイデンティティを意識したし、今はなき「月刊カープファン」を初めて買ったときからはもう真っ赤な鯉党だから、少なくとも四十有余年やってることとなる。

しかし、カープファンやって幸せだったことは、存外に少ない。1984年までの最初の数年と、三連覇のときくらいだろうか。あとは、本当に右も左も真っ暗闇な時代がなんと多かったことか。それでもまだ足らないとばかりに今年の体たらくである。なんとも物悲しいったらありゃしない。

しかし、残念ながらこれはカープファンの共通見解ではない。あの「失われた二十余年」でさえ、否定的な評価がされるとは限らないのである。まったくありえない話なのだが、ありえないことが起こるのがヒロシマ球界である。

その原因をたどっていくと、やはりその期間が松田元という独裁者の治世と重なることが大きな原因と言っていいだろう。「失われた二十余年」を批判する、少なくとも不満の声を上げることは、すなわちハジメを批判することにつながるのだ。しかし、一部ファンにはそれが許されない行為として認識されているらしい。

本当に、カープを巡るサークルはまさに「人民共和国」そのものだ。世襲の盆暗を擁して人間の間に確固たるヒエラルキィが作られているところなど、まさに生き写しである。批判を許さない体制が上から下まで構築されているし、結局潤うのは一部の特権階級だけで、あとは奉仕というかお布施というか、金員を進んで巻き上げられる体制になっているところなど、悪魔的に似ている。

正直なところが今年見せた崩壊ぶりは、太平の眠りを覚ます上喜撰になるのではないかと、少しは思っていた。現に怨嗟の声は聞こえてきていたし、岩盤支持層が崩壊するのも近いかもしれぬとさえ思ったくらいである。しかし、ハジメは狡猾だった。自らの忠実なるしもべである新井に「痛みを伴う変化」という悪魔のワードを語らせたのである。

そして、予想どおりそれは有耶無耶にされた。やはり新井の存在意義は体制護持のためだということがよくわかった。いや、そんなもの就任当時からわかっていたことであったのだが。結局「諸国民の王」にすぎないのである。ちびの伍長やその甥ほど理想を語ることすらできないのだ。

今カープに起こっている事象は、まさに私が予言したとおりである。じっと動かずにほとぼりが冷めるのを待ち、いかにも変わる姿を見せますと言わんばかりの線香花火を見せた後、ハジメの思うとおりの筋で押し切るだろうと思っていたし、現にそのとおりとなった。

思うに、カープを巡るサークルの中では、カープに強くなってほしいと思うのは堕落した反人民的思想なのかもしれない。確かに一部ファンのやってることは思想警察擬きである。弱くても愛するのが本当のファンであり、そのレゾンデートルを守るためにはカープは弱くなくてはならないという倒錯した愛があるのだろう。私のような凡夫にはついていけない。

そう思うと、本当にあとはおぼろ、である。私は子どもの頃カープに死ぬほど楽しい夢を見させてもらったのだが、それを再現することも後世に引き継ぐこともまかりならぬと思想警察たちはいうのである。

はっきり言って、戦うのは正直めんどくさい。しかし、なめられるのはもっとめんどくさい。私はカープにいい思いをさせてもらった恩がある。その恩返しができるとするならば、兜の緒を締めて、光る刀を手に戦うことしかあるまい。

人の世とは戦、やるの?消える?面白え。

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