中京テレビ発の全国ネット番組といえば、かつては柏村武昭司会の「お笑いマンガ道場」だったのだが、今や「オモウマい店」ということになっている。今日ひさびさに見てみたら、秋の京都にフィーチュアしていたのだが、それを見て、複雑な気分になった。先日書いたとおり、秋の京都などオーヴァーツーリズムの象徴のようなもので、どこに行っても大行列という始末である。そのうえに「オモウマい店」で取り上げられたということでまだ人が詰めかけたら、普段使いのお客さんの迷惑になるのではないかと思ってしまうのである。
とにかく、WEB2.0というべき現代では、秘密というものは許されないのである。正確に言えば、ピンは公人のプライヴァシィからキリはローカルな安くてうまい店まで、そっとしておくことが許されなくなっているのだろう。そこで振りかざされるのは「知る権利」なのかもしれないが、これは理性的な市民というものが大前提なのだ。現代のような衆愚社会は、この概念を発明した人の想定外なのである。私の恩師のひとりは「知る権利」なるものに懐疑的だったが、それは正解だったのかなと思う。
話が大幅に逸れそうなので元に戻す、いや戻そうにも筋がないのだが、結局のところ標題の言葉に尽きるのかもしれない。これを最初に言ったのはいうまでもなく仲尼先生だが、実際は行き過ぎることと足らないことに上下はないどころか行き過ぎというのは足らないより相当悪い、むしろ害悪に近いと言っていいのかもしれない。京都の現状やパパラッチ的ジャーナリズムが如実に示しているではないか。
私はそもそも近代市民社会なるものに対し「良性」のものという幻想を持っていないし、むしろ人間というのはKarl Marx先生の言うとおり欲深くてずる賢い存在だと考えている。しかし、今でもそういう見解は少数派である。Karlに対する批判者であったMax Weberの資本主義観に毒されている向きが多いのだろう。特に近代衆愚社会の愚民たちにその傾向が強いと思う。
で、ここからの強引の場面転換が弊ブログの名物なのだが、ヒロシマ球界も多分にその傾向が強い、というよりそのものだと思う。バカープファンのヒエラルキィなど衆愚社会の集団の典型のようなものではないか。
彼らの特徴は、まさに贔屓の引き倒しである。非常に不思議なのは、なんであんな中途半端な選手を溺愛するのだろうかと思う。特に矢野。あんな肩は強いが守備は微妙な打撃論外の選手がいかにもすぐに侍ジャパン並みの選手になれると信じられていることなど、恥ずかしくてよそのファンには言えない。いや、矢野だけではない。どうしてオフェンスに貢献しない選手がこれだけ推されるのかと言うくらいである。
それともあれかね、「守り勝つ野球」なるものを信奉している故に、オフェンスの強い選手を推すことは何か沽券に関わるとでも思っているのかね。あるいはディフェンスしか能のない選手を推せば野球ファンとして徳が高いとでも思っているのかね。いずれにしても、莫迦莫迦しい。
このままじゃ、カープは小粒な選手ばかり集まった非力集団になってしまう。西川が出て行き、このままではいずれ小園も坂倉も流出するだろう。しかし、そういう選手をディスってでも小粒で非力な選手を推せばいいと思っている莫迦が多いことには、辟易する。ほんとうに、みんなまとめて、くたばっちまえばいいのに。






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