ある鯉党のたはごと2023その1;「文は人なり」

今日の内容の名宛人は、多分に私である。あくまで自己批判という意味合いでお読みいただければと思う。

今日は昼間時間があったので、新聞の書評欄で読んだある本を探しに行った。本当に読みたいと思ったらアマゾンでさっさと注文してしまうのだが、そこまでの手応えがなかったので、リアル書店で確認したくなったのである。幸か不幸か、その本はなかったが、久しぶりに書店の店頭で気になった新書を2冊ばかり衝動買いしてしまった。で、暇に飽かせて読んだ。珍しく、一日で読み切った。

読み切れた原因は、単に時間があったからだと思うが、要するに文章が読み切る阻害要因にならなかったのだろう。ただし、2冊とも書き下ろしではなく、かたやエッセンス本、かたや取材を元に構成作家が再構成していたものだから、文章がよかったからというものでは、ない。いや、文章がよかったからと言う体験をした例の方が、極めて少ない。それほど、読ませる文章を書く人が少なくなっているのかもしれない。

元裁判官で、専門書を含めたくさん書物をものしている瀬木比呂志という人がいる。この人は一般向けの本もあり、「黒い巨塔ー最高裁判所」という小説もあるのだが、私はほとんど読み通すことが出来なかった。よくいえば説明過多、悪く言えば詰め込みすぎなのである。昔紀貫之が在原業平の歌を評して「その心あまりて、ことば足らず」と言ったのが当てはまるような気がするのだ。専門書ではよくても、一般向けの本、まして小説ではいかんだろうと思う。

同じような文を書く人に、松本清張という人がいる。この人の文章もいい加減説明がくどく、特に遺作となった「神々の乱心」は非常に読みにくいのだが、それでも氏の文章には読むものを引きつける何かがある。やはり、文章力が違うのだろう。遺作の読みづらさは、それなりに氏の文章力、構成力が落ちたからとも考えられる。

ことほどさように、文章で人を納得させるのは難しい。まして私のような素人をや。やはりまずは簡潔な文章を書くと言うことに尽きるだろうと思う。実際私も、言いたいことをA41枚にまとめる訓練をしていた。そこで必要なのは、推敲である。このような拙文でも、せめてそれなりの推敲をしてから出しているつもりなのであって、それが抜けているとしたら私の文章力が足らないからなのである。

ただし、簡単な表現をすれば簡潔な文章ではない。一定のレベルを保ちながらそれを分かりやすく表現する必要があるのであって、それがなければ小学生の作文と変わらない。実際、洋の東西を問わず、最近の政治家の演説の表現は、まあ稚拙というかなんというか。それを見抜けない有権者にも問題があるのだが、それを分かりやすい政治をしていると勘違いしている向きが多いから、なんともはや。

話がそれた。だからこそ、簡にして要を得るような、そして一定程度内容のある文章の書物を手に取ると、干天の慈雨の感があるのだ。私にとっては、宮脇俊三という人がそうだった。「汽車旅12カ月」「最長片道切符の旅」を一番はじめに読んだのは中学生の時だったのだが、以後今に至るまで飽きることなく読み続けていると言うことは、やはり氏の文章力、そして一定レベルの教養に裏打ちされているからだと考えるのだ。そう思うと、自分などまだまだ文章修業せねばならぬと思う。だいいち、氏が「時刻表2万キロ」をものした歳に私もさしかかっているのだから。

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