あの日、あのとき(後編)

「1988.10.15」を取り上げたのなら、同年の「10.19」をスルーするわけにはいかない。この「激動の5日間」こそ、私の人生を変えたといっても過言ではないのだから。

あの日、午後3時から始まった激闘のドキュメントは、もう語り尽くされているので敢えて書き加えることはないと思うが、私小説的なものとして付け加えると、当時予備校の寮はテレビがなかったので、ラジオの前に着席して熱闘に一喜一憂、まあおよそ勉強どころではなかった。正直なところ、後にも先にもあんなに心の底から揺さぶられたことはない。

あの日の試合ばかりフィーチュアされるのであるが、そこに至るまでも十分ドラマティックなのである。10月15日の近鉄にとっては痛い敗北の後、翌16日は日生球場で同じ南海相手に勝ったものの、17日の西宮球場の阪急戦で相手エース星野を打てず痛い敗北を喫した。この敵将上田監督の意地の裏に、ブレーブス身売りの話が絡んでいたのは、後で分かったことである。この時点で、まあ近鉄の逆転優勝はないなと、当時は愛する球団を失ってフローター状態だった私は思っていた。

ところが、18日の川崎球場でのオリオンズ戦、ブライアントの2発と、骨折離脱の金村の代役である吹石徳一、今の人には福山雅治の義父といった方がよいか、彼のホームランを含む猛打賞の活躍で勝ち、「10.19」を迎えるのである。あの勝ち方を見て、またひょっとしてと思った。だからこそ、みんな「10.19」に燃えたのである。もちろん私も。

この試合の後、私は近鉄バファローズというチームを「福岡ダイエーホークス」の代わりに応援することになった。その理由はこのバファローズの試合に感動して、といいたいのだが、実は違う。この試合終了直後は、頭の中が真っ白で呆然としていたのである。本当に無意識下でこのチームをサポートしたいと思って、以後バファローズを応援すると寮の同室の面子の前で口に出したとしか思えない。事実、形から入る私がその後1か月半くらい何もできず、ようやく12月上旬、当時あった大阪北予備校の主催する「共通一次ファイナル」の申し込みに行ったついでに近鉄阿部野橋駅にあったバファローズコーナーに行き、ファンクラブ会員となった。要するにそれほど愛するチームの宗旨替えは難しいのである。

もちろんそのときに、まさかその16年後の閏年、今度は近鉄バファローズがあんな形で取り潰されるとは思いもしなかった。しかも、あの日の感動を減殺するかのように身売り記者会見をぶつけた宮内のせいで。

ずいぶん長くなったので思い出話はこのくらいにしたい。あの第二試合、魂の実況を全国に轟かせたアベロクさんも天上界の人となった。久しぶりにDVDでも引っ張り出そうかな。あのDVD、残念ながら第1試合の映像がほとんど入っていない。いうまでもなくそのときのオリオンズの先発投手が今塀の中にいるからだが、なんとも残念だ。

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