今朝の中国新聞スポーツ面を飾ったのは、松山竜平と田中広輔の構想漏れの記事だった。2人とも現役続行を希望しているようだが、まあ打てないチームで一軍に呼んでもらえないヴェテランを取ってくれるチームはくふうハヤテとオイシックスしかないだろうから、当然の措置と思われる。少なくとも純客観的に見れば。
しかし、これまで功労者の処遇には気を使うほど気を使い、欠片が砂になるほど心を砕き続けてきたこのチームにしては、辻褄が合わないのである。正直この真意を測りかねていたのだが、ある結論に達した。これが正しいかどうかは分からないが、何となく腑に落ちるのだ。
蓋し、昨年出さずにすませた変革というものにつながるインパクトを見せる必要が生じたからに違いない。それはすなわち、今年変革の体を見せておかないといよいよハジメ体制の危機につながると感じたからなのではないか。
三連覇のあとの7年間、ハジメは攻撃力の弱体化を徹底してきた。新井体制の3年間だけでも、オフェンス補強の拒否を決め込んで絶対に優勝しないチーム作りに邁進してきたのである。新井初年度なんてハジメにとっては涙が出るほどおいしい結果だったのである。
しかし、そんな悪だくみがそうそううまくいくものではない。昨年の9月大失速は新井の口を使って「痛みを伴う」変革を約束させざるを得なかった。しかし、もちろんハジメは全て反故にして、全く昨年と同じことをした。その結果、年に2回も大失策をしでかす結果となった。さすがのカープファンも、現体制に対する疑問と不満の声が上がっているところだ。
このまま同じようにふんぞり返っていたら、次は自分が寝首を掻かれると考えたのだろう。ハジメはそこまで莫迦ではないのだ。しかしハジメは変革に舵を切る気などこれっぽっちもない。そのため、あたかも変革するかのように見せる人身御供が松山と広輔だった、と考えると、すべての点と線が繋がるのだ。
いや、これでさえ茶番かもしれない。松山も広輔もどちらかといえばハジメがかわいがってきた選手だ。実はまだなにか裏があるかもしれない。狡猾を絵に書いたようなハジメのことだ。人間の悪い私でも呆れるくらいの寝技を見せるかもしれない。
話を下に戻すと、何故人身御供にこの二人が選ばれたかを考えると、ひとつは出したところで一軍戦力にはならないと冷徹に値踏みしたからだろう。もうひとつ挙げると、別にヴェテランだけではなく、ハジメの希望枠はけっこういるのだ。それが多くなりすぎて全部が全部守れなくなったというべきかもしれない。要するに松山も広輔も不健全極まりないハジメ体制の犠牲者ともいえる。
断言してもよい。カープの戦力外通告は絶対尻窄みで終わる。ハジメの辞書では、変革という言葉は悪の象徴なのだ。ハジメある限り組織変革はできない。ハジメの悪魔性は負けても儲かるスキームを作ったことである。それに抵触することはすべて悪なのだ。まさにハジメ体制とは、正と反とがひっくり返った中で止揚されたものだといっていい。要するに、負の殿堂なのだ。敵は本能寺にあり、なのである。
そう思うと、たかが人事、されど人事なのである。これからおいおい発表される人事こそ、ハジメ体制護持のための断末魔の叫びなのだ。






コメント
万博の日本館を訪問した皇族A宮家の長男が、生分解性プラスチックの展示場で係員に「分解されて最終的にどうなるのですか?」と質問した。おいおい、小学生の知識レベルでしょうが。確か筑波大学生命環境学群の生物学類に進学したんじゃなかったのか。無試験裏口入学が完全にバレたねえ。幼小中高大、全部無試験裏口入学。しかも全部国立。
まあ、こうやって日本の特権階級トップ層からして、税金で生活しているくせに何百億もばらまいて不正不法のやりたい放題なんだから。そういう壮大なインチキと比べたら、赤チームオーナーの独裁ごっこなんて、みみっちい。
大きな嘘は、集団を動かす・物語を形成する等「必要悪」や「物語」として正当化されることもある。だが赤チームオーナーのような小さな嘘の積み重ねは、「些細だからこそ許される」「日常の潤滑油」として容認されがちだが、蓄積されると関係性の根幹を蝕む。特に親密な関係では、些細な嘘が「信頼の崩壊」の引き金になることもある。
オーナーのくせに、「大物感」が皆無なんだよね。ケチ・セコさばかりが際立つ。こんなのが、贔屓チームの代表かと思うと、恥ずかしい。