あらゆる創造は、模倣から始まる。

つれづれ

以前書いたところだが、いろいろ音楽を聴いてきたら必ず何処かで似たようなメロディに当たる。それは当然というか、やむを得ないことでもある。これをすぐにパクリとか剽窃とか言って喜んでいる向きは、頭のお味噌を詰め替えたほうが良い。人の耳に心地の良い音の調べというのは自ずと限られるのであり、それの取り合いなのである。

だいたいクラシックの時代は、自分の作ったメロディを他人に模倣されることは名誉なことだった。拡散されれば拡散されるほどオリジナルの格が上がったのである。音楽というのはそもそもそういうものだと思っている。何でもかんでも唯一無二のオリジナルができると思うのは、無知の極みなのである。

模倣とは若干意味合いが違うかもしれないが、意図的な引用という手法もある。「アホの坂田」が「メキシカンハットダンス」を下敷きにしていることがその例だし、海原千里・万里の「大阪ラプソディ」は明らかに藤山一郎の「東京ラプソディ」のオマージュである。これは作編曲の腕の見せ所でこそあれ、否定される筋合いはないはずだ。

そもそも音楽というものは、広く再現されることによりその価値が生じるものである。要するに歌われてナンボ、演奏されてナンボなのである。その中で、広く流布されたメロディに対するオマージュが出てくることは至極当然というか、それが音楽の宿命だ。それを理解できない単細胞の、なんと多いことよ。

もっと言えば、他人の空似というパターンだってあり得る。例えば、かつての江藤智のヒッティングマーチと大塚愛の「さくらっぼ」のサビはそっくりだし、江藤の先代テーマ(もともと片岡光宏のために作られたもの)の出だしは「阪急ブレーブスの歌」と酷似している。要するに、そんなものなのだ。

それを否定するなら、もう前衛音楽に走るしかない。以前も言及したが、ペンデレツキの「トレノス」を聴いて逃げ出すような向きは、二度と音楽など語ってはならない。このくらい聴いてこれがいいんだよといえれば立派なものだが。そう言えば絵画でも、大原美術館だったか、何かを書いた上から真っ黒に塗りつぶしたものを見たことがある。私には良さが理解できなかったが。

なんでもそうだが、そもそも論として基礎のないところにオリジナルなどないのである。そのベースは、やはり模倣が一番だ。音楽だって過去の名作を引き込んで練習するわけだし、絵画だって過去の名画の模写から始まる。それが出来ていないものの作る「オリジナル」なんて、単なる芸術ごっこに過ぎないのだ。

まあ、人生さんではないが、今の歌なんてほんとうに得心がいかないというか、キダ・タロー翁なら端的に「ヘタ」というようなものばっかりだ。要するに基礎のない自称オリジナルである。まあ、どうせ自分がいかにも格好良く歌えますというように高音だけ聞かせたサビを一生懸命打ち込みで作るだけなんだろうが、こんなもんに金なんか払えるかと言うほかない。だって、プロの仕事じゃないんだから。

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コメント

  1. Иван Иванович より:

    管理人さんの論法、ちとヤバいんじゃない?暴論に近い。

    楽曲が
    「似ているけれど剽窃ではない」
    「似ているからこそ剽窃になる」
    の差がかなりはっきりする。

    「似ているけれど剽窃ではない」ケース
    ・典型的なカデンツ(例:I–V–vi–IV)
    ・習慣的なリズムパターン(ボサノヴァのコンピング、ロックの8ビートなど)
    ・ジャンル特有の定型(演歌の「こぶし」的ライン、ゴスペルの進行など)
    これらは「そのスタイルを喋るための文法」なので、似ていて当然・誰の専有物でもない。
    ・使っている楽器編成が同じ
    ・テンポ・拍子・コード感が似ている
    ・ミックスや音色の方向性が近い
    など、「サウンドデザインの空気感」が似ている場合。
    これは多くの場合、似ているのは「空気」であって、「文章」ではないから剽窃とは言えない。

    「似ているからこそ剽窃になる」ケース
    作品の“顔”にあたる部分がほぼそのまま
    たとえば
    ・サビのメロディラインの音程とリズムが、ほぼ一致
    ・冒頭の印象的なフレーズが、音の高さも長さもほぼ同じ
    ・繰り返されるフック・リフ・シグネチャーフレーズが酷似

    全体の設計図がほぼトレースされている、メロディ単体ではなく構造がそっくりなケース
    ・Aメロ・Bメロ・サビの長さと配置
    ・起承転結のタイミング
    ・転調やブレイクの位置
    ・メロディの「上がり方・下がり方」「盛り上げのカーブ」
    が重なると、「偶然この形になりました」と言いにくくなる。ここでは、「局所的な一致」ではなく「全体のコピー感」が問題になる。

    似てしまうのは、ある程度しょうがない
    語彙は有限、音階も有限、ジャンルごとの“型”もある。だから、「似てしまう」「似ることがある」は創作の宿命。ここまでは事実として認めていい。
    逆に、象徴的なフレーズをそのまま使い、出典も言わず、さも自分のオリジナルのような顔をする。これをやった瞬間に、“無意識だろうが”剽窃扱いされても文句は言えない。

    日本は“権利を守る文化”が弱いという問題が内在する。
    剽窃に甘い、特許戦略が弱い、盗用されても声を上げない、メディアも追及しない、という文化的弱点がある。
    本来は、独占期間中は徹底的に守る、期限が切れたら社会に開放する、というメリハリが必要なのに、日本は前半(守る)が弱い。
    その結果、技術を盗まれる、表現を盗まれる、海外に特許を盗られる、文化的価値が流出する
    という“踏んだり蹴ったり”の状況が起きる。

    日本の著作権は、著作者の死後70年まで保護される。特許権の存続期間は、原則として特許出願の日から20年と定められている。

    1.営利を目的としない
    2.聴衆または観衆から、入場料等を受けない
    3.出演者等に報酬が支払われない
    上記のいずれか1つでも該当しない場合は、著作権の手続きが必要になる。十数名程度のパブライヴ開催にも、著作権料は発生し強制的に徴収される。カラオケで歌うにも著作権料を支払ってる。
    また、音楽教室のレッスンに関わる著作権使用料は、年間包括契約を結んだ事業者は大人の生徒1人につき年間750円(税別)、中学生以下同100円(同)、契約しない場合はレッスン単位などで支払う。要するに、営利を目的とする事業所では、生徒のレッスンにも日本音楽著作権協会への著作権料支払は強制されている。

    似るのは当然(事実)だからパクリと言うな(暴論)という、論理の飛躍をしているんやない?「オリジナル」なんて、単なる芸術ごっこに過ぎない、と言うなら、日本の文化は崩壊する。

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