むかし、「題名のない音楽会」を黛敏郎が司会をしてた時代に、よく指揮者の岩城宏之が出演していた。ある時に岩城宏之翁曰く、ある日試しにベルリン・フィル(だったと思う。間違っていれば失礼)の楽団員に次々と日本の歌謡曲のレコードを聴かせたという。そこはなんと言っても当代一流の音楽家揃い、ほとんどの曲は鼻でせせら笑っていたらしいが、ある曲がかかった途端に全員が目を見開いて聴き入ったという。そして口を揃えて言った。「この曲には力がある」、と。
その曲こそ、美空ひばりの「柔」だった。確かにあの極はお嬢のナンバーの中でも圧倒的な存在感を誇る曲だといっていいと思うが、天下のベルリン・フィルの楽団員をも、その声だけで圧倒したというのはやはりただ者ではない。当たり前だが彼らは美空ひばりがどうたらという先入観が全くないのである。まあ、私より二回りくらい上の世代の人だったら何を当たり前のことをと思われるだろうが。
最近、なんかことあるごとに「歌の力」なる言葉が安売りされているような気がする。確かに紀貫之は「あめつちをもうごかし、めにみえぬおにがみをもあはれとおもはせ」などと言ったが(ただし彼の言う歌とはやまとうた、すなわち和歌だが)、どんな歌でもいいと考えていたのではあるまい。秀歌と凡歌とは自ずと差があるだろう。それは事実仮名序での辛い歌人評に現れている。
ましてや、今の「歌」、すなわち歌謡曲はそうだろう。人生さんではないが、今の日本の歌の中で、どれだけ「力」があると思える曲があるだろうか。私に言わせれば粗製濫造の極みである。これから年末にかけてまた歌を聴く時期に入るが、常々思うのは、その歌は誰に対して歌ってますかということだ。
はっきり言う。最近の歌は、すべからく「一部ウケ」だ。もっと悪く言えば「自己満足」、さらに悪く言えばMasturbationである。もちろん自分で納得できないような曲を人前にかけることなど出来ないだろうが、ものすごく低いレベルで納得してこれすごいだろうと見せつけている趣なのだ。控えめに言って、聴くに堪えないというところだろうか。
今となってはタレント扱いだが、やしきたかじんというのは非常に得がたい歌手だった。全盛期の彼の歌は、本当に人を引きつけるものがあった。引きつけられた中の1人が言うまでもなく私だ。彼はレコーディングのとき3回までしか歌い直しをしなかったという。もちろんそれだけ完璧に仕上げてくると言うことである。ただ、全盛期は短かった。1985年から1994年までの10年間が一番艶があったが、やがて声が衰え、そのうち歌に興味を示さなくなってしまった。
今や歌というのは、キャッチーなフレーズをSNSでバズらせるためだけの物になってしまった。いや、そういう曲の作り方が悪いわけではない。それを芸術に昇華させたのがキダ・タローという人であるし、つんく♂なんかはキダ・タローの影響を受けているのではないかという気がする。しかし、今聞こえてくる曲はすべからく外形だけ真似た水割りだ。
最近私は、たかじんとももクロ(彼女らは決して歌はうまいとは言えないが、前山田健一の才能が光る)を別としたら、ふるっぱーやきゅーすと、きゃんちゅーをたまに聴いている。理由?正統派アイドルという路線を徹底して売っているのがよい。そこまで突き抜けると歌の巧拙を超える説得力が出てくるのだ。
と、いうわけで、12月31日の紅白である。他に見るものがないからきっと見るだろうが、楽しみはないし、きっと何を聴いても右から左だろう。去年はB’zとTHE ALFEEという飛び道具で面目を保ったが、今年はどうするつもりなのかね。従前はもう12月31日の23時45分にはおなかいっぱいになっていたのだが、今年はどうなるんだろう。水を飲んで腹を膨らませる趣になりそうだ。
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