門松を標題のとおり例えたのは一休宗純禅師だが、数えで歳を数えなくなった今はさしずめ誕生日がそうなるのだろうか。私にとってはまさに今日なのであって、早くも56回目となった。弊ブログを書き始めたのがまだ三十代だったと思うと、ずいぶん経ったなと思う。
ただ、誕生日が来たからといって、それ以上の感慨は特にない。楽しみだったのは小学生の時までだ。カープ沼にどっぷりはまるようになってからは、この日は勝ってくれと思うくらいだ。今年は交流戦とリーグ戦の谷間でそれもない。だからのんびりとこんな駄文が書けるのであるが。
そのリーグ戦再開は明日。これまたオールスターブレイクまでの短期決戦と考えたら、本来のんびりとは構えてはいられない。しかし、カープ界隈の空気は、非常にぬるい。まあ仕方ないか。優勝してもらっちゃ困るというハジメの意を受けてバカープファンが同じように構えてるもんね。
明日の相手予告先発は大野雄大。さもありなんと思う。今のカープ殺すにゃ左で投げるか強いストレートがあればよいのだから。もちろん明日は高橋宏斗で明後日は松葉貴大。どう考えても地獄絵図しか浮かばない。どうやって点取るよ。
しかも下等霊長類並みの頭脳の新井は、交流戦は大戦果を得たという重大な勘違いを犯しているに違いない。それが証拠に、後半戦へ向けての新兵器の話が聞こえてこない。どうやら久保を帯同させたようだが、それだけかいという気がする。存在自体が異常に軽い上本とか、もはやモンテロの守備固めとしてしか存在価値のない堂林とか、明らかに打撃の調子の悪い秋山とか、どう処遇したいのだろう。
最近のウェスタンでの結果を見ると、林が長打を連発している。普通のチームならとっくに機会を与えられているだろうが、このチームは普通ではない。サードで使えば矢野が、外野で使えば野間が浮いてしまうからだろう。この2人は、まごうことなきハジメのお気に入りだ。このチームは勝利よりハジメの意向が重視されるのである。
だから、きっと今年もシーズン途中の補強をしないだろう。本来はしなければ嘘だが、このチームは存在自体が嘘だ。だから何もしない。パワーアームのピッチャーと強いストレートをしばき上げられるバッターを取ったら相当面白くなると思うのだが、ハジメシンパのバカープファンにとってはそれは真夏のナイトメアなのだ。私からしたらカープがこんな嘘つき球団になっていること自体が悲劇的としか思えない。
話が相当散らばったが、要するに言いたいことは明日からの三連戦は「みすぼらしい笑劇」になるだろうということである。否、こんな例え方をしたら親愛なるKarlに叱られるだろう。もはや二度目じゃないだろうって。ならば三文オペラとでも言うべきか。今度はBrechtから物言いがつくか。そんな何も考えてないのと一緒にするなって。
本当に、このHeiliges HAJIME Reichが打倒されない以上、一生懸命カープに突っ込む価値はないということなんだろうね。このまま「千年帝国」になってしまうのだろうか。いや、もはやそれに匹敵するくらいの無益な日々を刻んでいるではないか。もはや、着実に冥途が近づいてきている私には、待てるものではない。
もっとも、私もしつこいから、それに屈服する気はさらさらない。昨年も書いたと思うが、今の目標は2069年の今日にこうやって口上を述べることだ。それに至る前に、ハジメ神権帝国の崩壊の詩を詠みたい。LiveRevoltを奏でたい。






コメント
誕生日おめでとうございます。コチラ愛知のメディアでは、宏斗は週明けのカードにまわして土曜は涌井って報道されてます。後半ドラゴンズとは週末ばかりなので、今年は宏斗と金丸クンとは対戦が少なそうです。
確かに、冥途を意識する50代後半以降の誕生日は微妙やね。
一休宗純禅師の名が出てきたついでに余話を少し。
一休さんの時代、応仁の乱に至る南北朝の戦乱で、当時の禅宗本山には千人単位の僧がいて武装していたという。一方でこの時代は、明の永楽通宝が一般社会にまで広まり、物々交換から貨幣経済へ移行する時期でもあった。
「不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏」を禅宗の開祖達磨大師の「四聖句」と呼ぶ。文字や言葉を介さず、経典もアテにせず、直接仏としての心を示し、それぞれに具わった仏性を見て(現して)仏に成る、というのである。不立文字は「文字で書かれたものは解釈いかんではどのようにも変わってしまうので、そこに真実の仏法はない。したがって、悟りのためにはあえて文字を立てない」という戒めである。
なお、禅の世界での「作家(さっけ)」とは、禅の熟達者、指導者を指す。
半分は、従弟(現住職)の受け売りですけど悪しからず。
以前触れたように、叔母が愛知県の臨済宗寺院に嫁ぎ縁ができたので、一般の方よりは多少禅宗に明るいかも。
禅宗には曹洞宗と臨済宗があり、基本座禅を組むのだけど修行法が異なる。曹洞宗はひたすら黙って座禅を組むのみの修行。一方、臨済宗は禅問答があったりでバラエティに富む修行で、雰囲気は別物。禅問答の修行がある臨済宗の坊さんは、話術が達者でオモロイ人が多い。話術だけやなく、僧侶兼医師という二刀流の住職が出現したり、生き方も思考も柔軟で興味深い。対本宗訓氏は京大哲学科卒業後、僧侶を務めながら46歳で理転だから、相当苦労されたのでは。理転だけでも厳しい上、理系最難関の医学部へ再受験は至難の業。
やはり、人として最強なのは、屈強な肉体でも強固な意思でもなく、思考の柔軟性なんじゃないかと思ってる。
強烈な台風で倒れるのは硬い大木で、しなう(しなる)竹は倒れにくい。
カープの指揮官は「木」やろね。