「独裁者」堕ちし日に

スポーツ

昨日のうちに今日の話は書こうと思っていたが、某ホテルのディナーブッフェで、しかもワインをグラス5杯も飲んだため、昨夜はそんな気にならなかった。そもそも横になったが最後、目が覚めたら朝の3時半では、仕方がない。

すでに報じられている通り、読売新聞社の最高主筆であった渡邉恒雄翁が亡くなった。この人に対しては後述の通り思うところはたくさんあるが、人間としての死にまでどうこういう気はない。ただ、氏の盟友であった中曾根康弘の言葉を借りれば、これ以降は「歴史法廷の被告人」でもあることは確かだ。なので、その線で論じてみる。

この人ほど毀誉褒貶多く、また功罪相半ばする人もいないと思う。現在に至る読売グループを作り上げたことが「功」とするならば(異論はあろう)、その座に就いてからの奔放な言動は、支持者以外には「罪」といって良いと思う。さらに言えば、大野伴睦に気に入られ、さらに中曾根康弘と関係を深めることにより、読売新聞社が正力松太郎以来の保守路線を確立することとなったことは、立場によって評価分かれるだろう。

ひとことでいえば、氏も自認?していたとおり根っからの「独裁者」だったのかもしれない。それは、たとえばかのAdolfのように、なんらかの理想を持っていた「独裁者」だったのだろう。ただ、氏の経歴を見ると最初から自民党タカ派的な見解に与していたかは疑問であるが。何か高邁な理想を語るというよりは、多分に現実主義的なものだったことは、想像がつく。

それはさておくとして、やはり齢九十を越してまでなお読売新聞社に出勤し、社説とかの原稿に目を通していたというのは、私としてはいかがなものかという気がする。少なくとも、現役の記者にとってはいい迷惑だったのではないか。なんせ、もう氏と議論できる人など社内にはいないだろうから。それとも何言われても流すようになっていたのだろうか。

何度も引用するが、兼好法師が四十代で云々と言ったのは、職業人としてなら分かる気がする。一兵卒としてならともかく、九十過ぎのトップというのはいかがなものなのだろうか。それともこれこそ「独裁者」のなせるわざのだろうか。それこそ孤独な戦士Charlieならどうカリカチュアライズするだろうかとさえ思うのである。

いや、氏にとって「余技」はあった。それがジャイアンツだったのだろう。言うまでもなく彼が球界に介入し始めたのは1990年代頃である。だから七十代、要するに普通の会社のトップなら十分に隠居後の嗜みと言って良かった。ただ、彼はここでも「独裁者」然として振る舞った。彼にとっては球界においても読売至上主義を貫いただけだったのだろうが、それが球界を混乱させたことは事実である。

ただ、極点に達した球界の読売至上主義は、結果自爆という形で終わりを迎えた。しかし、現在における氏の「罪」を問うとすれば、読売グループ以外の茶坊主達を増長させたことだろう。その一人が、松田元であることは言うまでもない。これについては、長くなったから日を改める。中国新聞が氏の訃報に多くの紙幅を割いていたこととその中身で自明だろう。

それにしても、良くも悪しくもひと時代の終わりを告げたというべき訃報に接することが多い。やはり、時は流れて、みんな終わっていくのだろうか。

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