CAOSとORDERの間に

つれづれ

不肖この私、弊ブログの標題はある程度文章の中身を練ってから決めている。時に、書きながら標題を練り直すことだってある。そのくらい見せ方にはこだわっているという自負がある。そういう割には「午後11時のモノローグ」のようにどうとでも言える標題を持っているわけだが、あれはあれで使い分けの意味があるのだ。説明はしづらいが。

しかし、今日に関していえば、完全に「題先」だ。なんかこんな題で書こうと思いつつ、今に至っている。要するに、なんのプロットもなく筆を進めている状態である。普段はこういうことはしないのだが、いつもいつも堅苦しく考えるのに嫌気が差したというか、たまにはかるーく書いてみたいと思った次第なのである。

と、いえば聞こえはいいが、まあ要するに書きたいことが思い浮かばないのである。なら書かなきゃいいというのは正論なのだが、それだけでは人生面白くない。たまには気の赴くまま筆の進むままというのは良いものだ。ここはひとつ、兼好法師の曰われることに従ってみようではないか。なに、かの「徒然草」だって、いかにも説教臭く書いているようだが、中にはなんかテキトーに書いてるなという段もあるのだ。

と、いうだけで早くも三段落である。我ながらあくどいと思うのだが、まあこんなものに所詮善悪はない。私はニーチェを信奉するものではないが、そもそも唯一絶対善というものはないのではないかと思っている。まあそれは私の学んできた学問のバックボーンによるのかもしれない。法解釈学で頭が凝り固まっている向きはともかく、法哲学という領域に足を踏み入れると、思考の多様性、よって立つ哲学の多様性に思いを来さねばならないのだ。

そう、人間社会というのは、およそCAOSと言うに相応しいのかもしれない。私なんぞはCAOSの中に人生の楽しみがあると思う方だし、二言目にORDERを口にするもの、あるいは何事も秩序立てて考えないと気がすまない向きは、頭が弱いのではないかと思うのである。

しかし、残念ながら現代社会は、ORDERを守ることが社会正義だという誤った観念が蔓延っているようだ。社会秩序の安定が正義だというのは、実に危険でかつ誤った思想である。ヴラジミルやジンピンや領導様と言ってることが同じなのだ。ところが、彼らの思潮と対極であるはずの「自由擁護者」が、ORDERの維持に汲々とすることによって、実は彼らとやってることが変わらなくなるという逆転現象が起こるのである。ドナルドとヴラジミルのやろうとしていることが案外近しいことがその傍証になるだろうか。

ずいぶん長々と書いてきたが、なんか案外まとまりそうなところまで来た。しかし、今日はまとめない。ここまで書いて、私はここまで書こうとして筆が進なかったある事象についての橋渡しができそうな気がしたからである。だから、あえてここで一つの結論を出すことは、実は当の本人がORDERへの道を歩んでいるという背理が生ずるのではないかと思うのである。

敢えて一つ言うとしたら。

思考をCAOSにすると、楽しいよ。自由というものの価値を否定する者は少ないと思うが、自由はCAOSの友なのであり、ORDERとは縁遠い存在なのである。むしろ、ORDERが近寄った時点で、自由は死ぬと言ったら良いか。となると、すべての道はCAOSに通ずるとばかりに、思考をフリーダムにするのがよいのではないかと思う。

ただし、私はいわゆるリバタリアンではない。むしろそれとは遠いところにいる。あれはひとつのドグマティークに過ぎないと考える。一番近い思潮は何かと考えると。どちらかと言うとアナキストかな。

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