昨日の自分と今日の自分

つれづれ

民事訴訟法学の泰斗といえる学者に、三ヶ月章博士がいる。法務大臣を務められていたことで記憶されているかたも多いかもしれない。その三ヶ月博士が、ある書の執筆後の栞で、このように振り返っておられる。ドイツのある大家の言葉を引いて、「支配的な学説からの自由」「恩師の学説からの自由」そして「昨日の自分の学説からの自由」が大事であると。

でたらめな売文学者でない限り、まず「支配的な学説からの自由」が難しい。通説が形成される過程には、それなりの理由があるからであって、それを打破することは実は難しい。そして、私のように20000字程度のペーパーを書くに当たってでさえ、恩師の学説に強く影響されるのである。しかし、一番難しいのはやはり「昨日の自分」と対峙することである。それだけ学問に対して真摯に向かい合うことが要求されるからだろうか。

私は幸か不幸か研究者にはならなかったから、そこまで自分の見解を問い詰めることはなかった。むしろ若気の至りとも言うべきその時のペーパーを見て、今ならこう書けるぞと思うくらいだから、「昨日の自分」もへったくれもない。まあそれは参考にもならないとして、18年間書き続けているこの雑文を取り上げてみたらどうだろうか。きっと齟齬がでているところもあるに違いない。しかし、それはそれなりに考えている結果なのであって、ある意味「昨日の自分の見解」と対峙しているから、というのは格好付けすぎか。

でも、世の中には頭の弱いのがいっぱいいて、途中で見解を変えることを誤りのように言うのがいる。見解の首尾一貫性を言いたいのかどうかは分からないが、おかしなものだ。なにが正しいか分からないから思索するのである。たしかに1+1=2のように結論が変わったらすべてが狂うものもあるのだが、大半はそうではない。現にユークリッド幾何学にだって疑問を呈する見解もあるのだ。まして法学のようになにが「正義」にかなうかということになるとまさにカオスだ。それが理解できないものは、口を閉ざすが良い。

というより、すべてなにが正しいかということは決まっていて、それを考えることは時間の無駄とでも思っているのだろうか。もしそうだとしたら、昨日も今日も明日も明後日も成長がない、つまらない人間が増えているのも説明がつく。政治家しかり、芸人しかり。かたや十年一日のごとき裏金作りに勤しみ、かたや芸とも言えない内輪ウケ芸を垂れ流して倦まない。それだけではなく、裏で繋がっていたりしてね。

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コメント

  1. Senior より:

    まあ意見なんてコロコロ変わるもんやからね。
    意見がコロコロ変わるっちゅうことは
    物事を常に突き詰めて考えている証拠。
    だから状況変化や新たな情報が出て
    更新されるんやね。

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