標題にしたのはもちろん1980年のレコード大賞受賞曲「雨の慕情」の有名なサビである。これを歌った八代亜紀が、昨年末に亡くなられたことが発表された。73歳はまだまだ若い。原因は膠原病による間質性肺炎とのことで、奇しくも私の亡き母とほぼ同じである。亡母もかなり苦しんでいたから、さぞや苦しかったに違いあるまい。
「雨の慕情」やその前年の大ヒット曲「舟歌」は、当時小学生だった私でも知っていた。当時のヒット曲というのはだいたいそうだった。レコ大受賞曲だけを繋いでも、「勝手にしやがれ」「UFO」「魅せられて」「雨の慕情」「ルビーの指環」「北酒場」は、まさに子どもから大人まで知っていた曲だったし、そうでないと大ヒット曲という資格がなかったといって過言ではない。それに比べて今は、というとまた人生さんのようにひとぼやき出来るのだが、今日はやめる。
私が五十代を超え、今年その半ばにさしかかるから当然なのだが、子どもの頃から知っている歌手とかの著名人は軒並み七十代を超えることになる。そうなれば物故者も増えるのが世の習いと言えばそうだ。思えば美空ひばり、石原裕次郎という昭和の大スタアはそれぞれ52歳没、53歳没であって、私はその年齢を上回っているのだ。
最近の演芸好きにも知る人が少なくなったが、かつて灘康次とモダンカンカンというボーイズがあった。そのネタのひとつに、石原裕次郎や美空ひばりなど若くして亡くなった人を並べて、最後に「いい人みんな早く死ぬ うちの親方長生きね」で落とすのがあった。まあ長生きする人にいい人がいないかどうかは分からないし(ちなみに灘康次は90まで生きた)、兼好法師も四十路を過ぎて云々と言っている。でも、私はどちらかと言えば悪人と呼ばれてもいいから長生きしたいと思う。仕事をほっぽり投げてでもやりたいことが多いのである。以前2069年6月26日に弊ブログで口上を述べるのが夢だと書いたが、全くの本音だ。
もちろん、私は困った病を抱えているし、年を経るがごとにあちこち体にガタが来ていることは間違いない。だからといって、負けてられない。生きたくても生きられなかった亡母のことを思えば、あと数十年でくたばることなど考えられないのである。兼好法師の言うことなんてくそくらえである。当の本人は70すぎまで生きたくせに。
思えば、前のカープの日本一が1984年。ついにそれから40年が経過してしまったのである。1984年は昭和59年だから、御代が平成に変わってから日本一になっていない唯一の球団となってしまったのである。はっきり言って恥だ。1984年現在はまさにカープの栄光は不滅と思っていたのだが、これを壊したのが松田元である。カープの暗黒は松田元の治世と重なるのである。そういえば松田元も現在72歳。八代亜紀と同級生である。なんとも溜息しか出ない。
なんとなくだが、彼奴は長生きしそうな気がする。だったら、なおのこと先にくたばってはいられない。しかし彼奴には、それこそ兼好法師のいうところの「住み果てぬ世に、醜き姿を待ち得て何かはせむ。命長ければ辱多し。」を突きつけてやりたいところである。あんなの、本当に生きていること自体恥さらしのような男ではないか。
それともあれかな。彼奴はきっと自分の治世、というより自分の生命は不滅だとでも思っているのかな。ならば余計におめでたいから長生きするに違いない。そしたら負けてられないな。120まで生きれば彼奴の治世の終焉に接することが出来るかな。
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コメント
まずは八代亜紀さんのご冥福をお祈りいたします。
年末のアホの坂田さん、昨日は中村メイコさんと昭和の大御所が次々と天に旅立つ。
人はいつか死ぬが、いざ直面するとやはり寂しい。
昭和の時代はコイツにしかできないな!と言う人材が発掘されたのに対し
現在令和の時代は金太郎飴のようにどこを切っても同じ人材しかいない。
強烈な個性を持ったもんがおらんね。
大衆に合わせているつもりが大衆を1番恐れている
ツマラン時代になったね。
また1人、昭和の大スターが天に召される
ご冥福をお祈りいたします。
八代亜紀さん死去のニュースで、両親の墓参りをサボっていることを思い出した。なぜなら八代亜紀さんの家は、姉夫婦の自宅から両親の墓がある寺院へ行く通り路なので・・・
三回忌の法要後、仕事にかまけて七・十三・十七回忌を飛ばしてしまい、いざ二十三回忌を執り行おうとするも、コロナで寺院内の法要はすべて中止。没両親に対し申し訳なさはあるものの、生きている者優先の生活になるのは致し方ない。警句家メーソン・クーリー曰く。「魂は滅びないという教えは、慰めというより脅しである」。魂は滅びないという主張は、生きている側の願望でしょ。その願いは「執着」へと繋がり、苦しみ囚われてしまう。亡くなった人に魂が生き続けているかいないか確かめようがない。こう言うと冷酷無比なヤロウと思われそうだが、地球上で人間だけが特別に尊いという奢りが様々な軋轢を生む。
「諸行は滅びゆく。怠ることなく努めよ」。釈尊の入滅に際しての最後の言葉は、たったこれだけ。
また、パーリ語聖典の『マッジマ・ニカーヤ』の中の「一夜賢者経」と題される経典に出てくる一節を挙げると。
過去を追うな。未来を願うな。過去はすでに捨てられた。未来はまだやって来ない。だから現在のことがらを、現在においてよく観察し、揺ぐことなく動ずることなく、よく見きわめて実践すべし。ただ今日なすべきことを熱心になせ。誰か明日の死のあることを知らん。
過去の失敗をくよくよと悩み反省したところで、同じ過ちを繰り返す。また、過去の成功体験が仇になることなど山ほどある。失敗体験にしても成功体験にしても執着するな。釈迦の「過去を追うな!」のうちに含まれる。
そして、「未来を願うな!」「希望を持つな!」
「希望」というものは、美しいものに思われている。しかし、よく考えてみたらそのほとんどが夢みたいなものだ。希望というものは欲望なのだ、その本質は。そんな希望は持たないほうがいい。試合で勝ちゃー何でもいいんだ、という声をきいたような気がするが、金儲けのためなら何やってもいいんだという、どこぞのオーナーと根底が一緒なんじゃないか。美学がないという点においては。
高校球児が甲子園で優勝したいと夢見るのを、世間の人は褒めそやすが、大震災の最中リサイクルショップに不法侵入し物を盗んだり、同級生を根性焼きでいたぶるような仙台育英高校が優勝して美しいと言えるかね。
勝つためなら、人殺し以外何でもOKなのか。
そんな生き方をするよりも、毎日の生活を楽しく生きなさい。釈迦はそう教えている。それが、「未来を願うな!」であり、「ただ今日なすべきことを熱心にせよ!」なのだ。
これは釈迦だけではない。イエスが、《明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である》(『マタイによる福音書』6)と言っている。釈迦と同趣旨の発言。
おそらく未来を願うのは、死に直面したことのない人の発想だろうね。
目の前でロケット砲が炸裂し(イスラエルにて)近くに居た人が爆死したり、大震災で身近な人が亡くなったり職場が倒壊していたり、亡骸の山の中を分け入り親しき人を捜索したり・・・そういう生死を分ける体験をした者は、明日以降のことを思い描いたりしない。
「明日があるさ」?子どもやあるまいし、何甘っちょろいこと抜かしてんねん。
考えてみれば、われわれは過去と未来に対していっさいの権限はない。