あの日、あのとき(前編)

いつぞやも触れたが、34年前の10月15日も土曜日だった。

10月15日といえば、カープ的にはV1記念日であるのだが、私的にはいうまでもなく南海ホークスの大阪球場最後のゲームの日である。当時京都で予備校生をしていた私は、当然そこに駆けつけていた、といいたいところだが、そうできなかった。今となってはまことにばかばかしい話だが、当時土曜日も予備校の授業が午後までびっしりあって、なんとなく罪悪感を感じてしまったのである。今なら平気でサボっただろうが。

よくよく考えたら、別に出席点があるわけもなかったし、思い切って1回くらいカットしてもいい科目ではあった。しかし、なんとなく気が咎めたのである。実はその2週間前、午後の授業が休講になったということもあっていても立ってもいられず大阪球場に行ったのだが、一番大事なところで勇気が持てなかったのである。こういうところが自分の思いきりの悪さの象徴ではないかと思うのである。

でも、ある意味行かなくてよかったと思う。行っていたら、きっと難波で呆然として京都まで帰れなかったに違いない。事実、その2週間前の試合後も本当に後ろ髪を引かれるような思いで難波を後にして涙をこらえるのに必死だったから、その日に難波にいたら、どうなっていたか分からない。その10年後の大阪球場自体のサヨナラセレモニー(これは広島から駆けつけた)のときも、やはり同じような感傷が沸き出でたからなおさらである。

そういう過去があるから、私はたとえカープの現状が気に入らないからと言って軽々に身売りしてしまえとか移転してしまえとかいう言辞を聞くと、ぶん殴りたくなるのである。ほんとうに、身売りならまだしも移転なんてどれだけファンの心理が千々に乱されるか、てめえらわかんねえだろうというほかないのである。

そういえば、パシフィックのクライマックスシリーズファイナルはホークス対バファローズであるが、いうまでもなく1988年10月15日のカードは南海対近鉄である。あのときは逆転優勝を狙う近鉄に対し最後の意地を見せた南海が勝ったのだが、それが近鉄にとって痛い1敗となってしまった。その意味ではファイナルの結果が今日までもつれ込んだのは、なんとなくそうなるべくしてなったのかもしれない。

そういえば、ホークスの監督である藤本博史は、この試合でサードを守っていた。三軍監督の小川史もベンチにいた。ヘッドの森浩之や三軍コーチの大道典良も在籍していたし、バファローズベンチにいた村上隆行も打撃コーチで収まっている。一方で、バファローズにはほとんど関係者がいないのは、やはりオリックス・バファローズは近鉄戦士の存在を歴史から消すために存在している偽後継球団だからなのかと思いたくもなってしまう。

ところでカープは、なんぞあったみたいだね。それはまた別日に。

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